ぢ①:ぢ

「ぢ」ではじまる単語がない。
昔には「じ」と区別される発音があったらしい。だから昔には「ぢ」ではじまる単語も発音もあった。
「適者生存かね」
男が言う。
発音記号はあるようだ。けれども、まだ「ぢ」が話されていた時期にすでにその発音記号はあったのか。そのことでずいぶんと違ってくる。
「考古学みたい」
女が言う。
時の進むのにつれてこぼれていって、すっかり埋もれてしまったものが他にもたくさんある。
「私たちもそうね」
女が言う。
なにも「ぢ」だけでなく、言葉だけでない。幾兆のニュートリノが知らないうちに物体をすり抜けているように、私たちは日常に生きて様々を素通りしているらしい。
「適者生存さ」
男と女は屍の上をかまわず歩く。

だ①:だらだら

旅行もはじめの頃は、夜にガイド誌のページをめくって翌日のおおよその計画を立てていた。
けれどもしばらくしないうちに、特別に物欲があるわけでも、グルメでもなく、必ず拝みたい景色というのもこれといってなく、どうも観光は苦手らしいことを知ってからは、宿からほんの少し遠くへ散歩に出かけるだけとなった。
その道中に、賑わいや観光客を見つけたなら、彼らの後ろをついて歩いていく。
観光客は路傍の商店に目移りしながらゆっくり進むので追い越さざるをえず、いつの間にか私は集団の先頭はるか先に立って、さてどっちへ行けばいいのだろうと道に惑うことが度々ある。
勘を信じて右へ折れたなら、蜘蛛の巣に迷いこんだ虫のように、メディナ奥地のガイドや売人にさんざん絡まれて、自分を疑って左へ折れたなら、元の道に戻ってきてしまう。そうして時々観光名所に無事に到着して、ふーんと思って帰路につく。
夕食にはまだ早いと、近くの喫茶店の庇の下で、現地の男たちに混じり、何をするともなくぼんやりと往来を眺めて過ごしてみる。
目の前をふらふらと歩く、蛍光イエローのベストを着た若くはない駐車監視員の男は、暇つぶしに近くの屋台へ歩み寄って何事かを交わし、またふらふらと歩きはじめる。何度か彼と目があって、間の抜けた笑顔をこぼしあう。
日が暮れ出すと、喫茶店のまわりは少し騒々しくなる。血気盛んな男たちが起き出して、待ってましたと街へ繰り出してくる。そうなると危険な香りが漂いはじめ、おっかなくなって、それでももう少し見ていようと腰を落ち着けてみる。
田舎から上京して、はじめて歌舞伎町を歩くときのような緊張と高揚を喫茶店に忍んで楽しむ。少なくとも、日本の安い居酒屋で、泥酔して騒ぐ学生やサラリーマンがすぐ隣にいる状況よりは危なっかしい。庇の下にいるかぎりはまァ大丈夫だろうと思う。主人は小太りの爺さんで人当たりも良いし、と何の根拠にもならないことを考える。
外気がすっかり冷えて、そそくさと喫茶店を去る。宿のおもてにある食堂のアフリカ料理の味がタジンやサンドイッチに飽きた舌には美味しくて、それより何より、私が来るとテレビでトム&ジェリーを流してくれるから好きだ。大人たちが一緒になって笑う。

ぞ①:ぞくぞく

見知らぬ土地のバス停や鉄道駅に立ち、目的地へ向かう乗り物を待つ長いあいだ、果たしてここであっているか、もう行ってしまったのではないかと心は浮き足だつ。道中の安全を願う素振りは見せず、けれども内心では異常に不安がっている。
辺りを見回すと、同じように待ちぼうけている観光客を見つけて瞬間は安心するのだが、いや彼らと目的が一緒とは限らないだろうとすぐに思い直して時計を見る。訊ねれば済む話ではないかと強く言い聞かせ、通りすがりの現地の荷役に発着場の正しいことを確認する。
「心配するな、いまここに向かっている」
恐れることがなくなると今度は異様に強がり、バックパックにどっかりと腰かける。そうして惑う他の観光客たちを眺めまわす。とんでもない情報を握って高みの見物をしている気分だ。
不安そうにバックパックを背負って歩く欧米の青年に目的地を訊ねると一緒の場所で、遅れているだけだから安心しなよと伝えれば、タバコを一本くれて、広くなった心に風が渡る。
ようやくやってきた乗り物に揺られて次の街を目指す。車窓からの眺めはだらだらと続き、さっきまでいた街に後ろ髪を引かれなくなった頃には、心が落ち着きを失っている。ガイド誌で見た写真や、旅行者に聞いた話、自分の妄想が一緒くたになって、遠くの街が色めき立つ。
目的地に到着し、乗り物からその土地に降りたつ足が軽くて心もとない。そこへ吹く一陣の風に私はたやすく運ばれていきそうで、バックパックのショルダーをギュッと握る。
タクシーの呼び込みを掻き分けながら、風に運ばれていった身軽な方の私を目で追えば、その先から知らない香りが漂って鼻をくすぐる。
その足では向かわず、道順を記憶しながらまずは宿に荷を下ろす。しばらく休んでから先の場所へ行こうとベッドに身を横たえればすぐに日も落ちかけ、空腹に身を任せて街へ出かけていく。
安い作りの食堂にはメニューもなく、おかみさんがやってきて台所の方へ手招かれた。コンロの鍋のフタをとって中身を覗かせて、これで良いかと訊ねる。頷き、席で待っているあいだ、東洋人の客をめずらしげに一瞥するお客さんたちに混じって、時折り砂嵐の吹くテレビをみる。知らないメロディの、知らないリズムの、かっこいい音楽が流れている。

ぜ①:ぜえぜえ

どうして私は上りはじめたと、長い階段の先を眺め上げて嘆息する。それなのに、次の段へのっそりのっそり足を運びつづけるのだから不思議だ。
ロッコ北部の山間にシャフシャウエンという小さな町があって、傾斜に青い家々が並び建っている。青くメルヘンな旧市街を背景にして、黄色や緑や赤の服を着た観光客たちが思い思いのポーズをとっている。
話によると、古くから真っ青な町だったというわけではないらしい。観光客の青色への反応が不思議に良く、たびたびカメラの被写体になるのを住人たちが知り、それではと、思いきりよく町全体を青で塗りつぶしたところ、一躍にして一大観光資源になったという。
「シミカルじゃない。オーガニックの最高級品だ」
売人たちの常套句で、十歩離れれば別の売人が繰り返す。聞きはじめた時には「シミカル」が何を意味するのかさっぱり分からず、しばらく歩くうちにケミカルのフランス語読みと判った。フランス語では「ch」がサ行で読まれ、リッチはリッシュに、ケミカルはシミカルになる。
するとシャウエンの青もシミカルな青色だろうと思う。小さな町に埋もれていた青色という資源を見つけ、抽出し、散布した。
因果はオーガニックだ。媒虫花へ誘われるように、次から次に人々がやってきて、金を落とし、観光地は一層に華やぐ。
旧市街の複雑な小路には土産物屋や宿屋が軒を連ね、狭まった道に観光客やガイドや売人たちの様々な思惑がうごめいている。シミカルだったり、オーガニックだったり、頭はこんがらがる。
路地を奥まで行くと建物はなくなって、墓がまばらに横たわる草原の丘に出た。石段が空方へ長く続き、その頂上に立派な建物がぽつんと佇んでいる。その建物は眼下に広がる青色には無関心のようで、頑ななコンクリートの灰色だ。私は精神病棟だろうかと思った。
都市のいかがわしい香りのする青い魔窟を眺めおろしながら、彼らは一体なにを思うだろうかと空想に耽っているうち、ようやく長い階段は終わった。拓けたところにはグラウンドがあって、青年たちがサッカーをしていた。ホイッスルを吹いたのは先生だろうかと考え、先の建物が校舎と知る。生徒たちは訝しむ顔でジッと私を見つめた。

ず①:ずきずき

渓谷の、初心者向けのロッククライミングで擦り剥いた手の傷がシャワーで少し痛む。
インストラクターは無口にタバコを吸いながら、私の命綱を下の方で握っている。ロープはたびたび弛んで心もとない。けれども二十メートルほど登ったところで後に引くのも癪で、知るものかと岩壁の引っかかりを懸命になって探す。
そのときに擦りむいた傷が意外にも長引いている。激しい日差しの下では治るのも遅いのだろうかなと思う。旅行から帰って、焦げ茶に焼けた肌が黄色くなりはじめる頃には、すっかり忘れてしまっているに違いない。
インストラクターはユセフという三十歳くらいの男で、これまでにも、ユセフと名乗る男には五人以上会ったことがあり、アブドゥールとは二十人以上だと思う。
ユセフは、普段は無口だが酒を飲むと陽気になってカマッテチャンになる。酒に酔った彼が家に戻ってくると、冷めた表情の恋人に彼は愛を告げ、恋人はまた始まったかと無視をする。それでもなおユセフが近づくと、恋人は玄関から外に出て、星空の下の深い渓谷へ向かう。彼は毎晩、彼女のあとに続く。
恋人関係というのを端から見ているとバカバカしいと思う。「嫌いも好きのうち」という金言を、意識してなのか無意識なのか、攻めにも受けにも巧みに駆使して関係を続けている。
別れちゃえば良いのにと思うのはまったく他人の勝手で、当人たちは同じ檻のなかで特別な関係というのを日に日に頑強に拵えていっている最中だ。丁寧に育めば立派なものが築けるだろうけれど、見逃した僅かなほころびが後々に重大な欠陥となって倒壊、ということもよくある。
それだから一層に、私たちはきっと違うよね、と特別な意識は燃え上がるばかりだから手のつけようがない。
私はというと、日本でコンビニへ行くのと同じく、おもての屋台にサンドイッチを買いに出掛け、すぐに安宿の部屋へ帰ってひとり黙々と夕食をしている。外国でもすることは変わらない。

じ①:ジュラバ

ジュラバというのはフードのついたベルベル人の伝統衣装で、ジェダイの騎士やねずみ男も着ている。乾燥して砂風のよく吹くモロッコでは防塵の役割を果たしているらしい。
フードに顔を引っ込めて隠し、とぼとぼと歩いていく老人の姿を街でよく見かける。
袋小路のなかにある細長い市場では、商店の軒下の、背もたれのない椅子に腰を落ち着けて、砂糖で唇がくっつくほどに甘いミントティーを飲みながら、往来の様子を退屈そうに眺めている。時折り横切る隣人たちと挨拶を交わし、握手をし、頬を合わせる。
「サラマリコン」
彼らは昼間から日の暮れるまでそうしている。アザーンが町に響くと、何人かはモスクへ向かい、礼拝が終わるとその足で散歩をし、またいつもの溜まり場に腰を落ち着ける。
盲目の老人は往来の賑わいの真ん中を杖をついて歩く。右の手のひらを前に出し、空へ向けて、神様の名前を繰り返し呼ぶ。
普段服の若い男たちは物売りやガイドをしていて、観光客の目と耳を盗むのに忙しそうだ。彼らの目は狩猟者のように鋭く、生きることへの情念が当然のように煌めいていて少しまぶしい。
「コンニチハ」「ビンボープライス」「アーユースモーカー?」
何をするでもないジュラバの爺さんたちは軒下やカフェや広場でぼんやりと、生活圏に観光客たちが大勢押し寄せてくるのを迷惑に思っていそうだ。けれどもそのおかげで息子たちは稼いでいるのだからと、心中複雑なちょっと空しい目で、街の様子を眺めている。
喧騒を離れた小路の片隅に、半壊した壁にジュラバを吊るす小さな店があった。物欲はさほど無いけれど、いつの間にか試着して、金を渡す私がいた。
夜、安宿の小さな個室でうきうき袖を通してみると、買ったときにはまったく気づかなかった微かな糞尿の香りを感じた。中古品を掴まれたのだろうかと後悔したけれど、モロッコの夜は意外にも寒くて、かまわずジュラバを着たまま毛布に入った。慣れてしまえば何の問題もなく、たやすく寝入った。

ざ①:ざあざあ

旅先で雨に降られると、多くの人は残念と心を沈ませるだろう。予定もあるだろうし、水たまりを踏まぬようにと余計な心配もしてしまうだろうから。
旅先でなくとも、日常の生活で雨に降られるのは嫌だろう。洗濯物は乾かないし、恋人の機嫌も悪くなるだろう。
晴れてくれと願って叶うなら、晴れてほしいに違いない。
けれども雨が降って良いこともある。
たとえば、傘を持たない人々が軒下で雨宿りをしている。雨に濡れながら通りを走っていく人もいる。傘を差して歩く人も水たまりを気にして歩いている。皆がいつものリズムではなくなっている景色を見られて少しホッとする。
縁日のような非日常の景色ではないけれど、雨が降るだけでほんのわずかに様子を変える。そのわずかな隙間に人々の心も少しほどける。すこし大胆になれて、そこから些細な物語が顔を覗かせる。
私は旅先でこれを書いている。同じ宿に長くとどまっていると、宿を変えて次の街へ向かうのが日に日に面倒になっていく。部屋の外に出るのすらトイレとシャワーだけという日もある。「せっかく旅行に来たのだから」と奇妙にも観光が義務化して腰が重くなる。
そんなときに雨が降ると私は嬉しい。面倒な観光を拒否する理由を、私の方であれこれと拵える必要がなくなるからだ。
それにここでは雨が降ったときにしか聞けない音もある。雨が降りはじめると、旧市街の、観光客も多く訪れる小さな広場に、
「パラプリューイ、オンブレーラ。パラプリューイ、オンブレーラ」
と、傘売りの男の呼び声が響く。その小太りな男の呑気な声が私は好きだ。