そ①:粗忽

 思慮に欠けるとか、落ち着きがないという意味だ。ぼくはこの言葉を落語で知った。「え①:絵描き」の注釈ですこしだけ触れたが、ぼくにもこういう面がある。というのは、なにか自分のなかで関連させられるような事があるとすぐにテンションが上がって「そうに違いない」と深く検討することもせずにアレとコレとを結びつけてしまう。世界は自分のなかで結ばれ、閉じている、と言うと少し格好はいいかもしれないが、要はそそっかしいのだ。

 けれども、それだからと言って自己卑下しているのでもない。思慮深く生きて、その度毎に慎重に考えを巡らせるのも良いが、それはぼくでない人のやる仕事だと考えている。

「飛んで火に入る夏の虫(*)」ではないが、ぼくは魚みたいに、疑似餌に惑わされ、かどわかされ、或るフックに釣り上げられて海の外へ飛び出していくのだ。そのときに伴う痛み(甚だしい勘違いで深く反省するような類)が、しかし思いがけないところへ連れ出してくれたりもする。その傷を治癒する過程で生まれるかさぶたが、よりオリジナルな空想事をつくるのに役立つのだ。

 誰も発見していないだろうと思えるような、秘密の場所へ行きたいがために、ぼくは粗忽であろうとしているのかもしれない(*2)。その手段として、ぼくはひとり勝手な妄想と連関とを繰り返す。

 外国人の口からよく聞かれる言葉に「日本人はシャイだ」というものがある。小学生はよくわからないが、授業や多人数での議論の場などでは、より大人になるにつれて、口数や挙手が減ってくるのを経験としてぼくも感じる。これには、不正解や少数でいることを恥とするような考えが生れ、育つためだ、という考えに概ね賛同できるだろう。またビジネスなんかでも、失敗を恐れることがせっかくのチャンスを潰してしまっている、というような話もよく見聞きする。これら恥や恐れというのは、外に正解を求め、外に真理らしきものを設定しているがために湧きおこるものであって(*3)、たしかに拠り所が外に在るというのは気が楽になるものだ。けれどもそれによって窮屈に思うのも事実としてあるだろう。いっそのこと「知ったことか」と居直ってしまえば随分と楽になるのだけれども(*4)。

 そのためにも妄想というのは大事だ。ひとりで楽しんでいるうちは誰にも迷惑をかけないでいられるし、そのなかで疑問も生まれてくる。甚だしく勘違いした解答を自分で拵えることもできる。その繰り返しが奇妙な閃きに繋がるし、またそれを獲得するためにも一人で居られる時間が必要になってくる。そうして一人になって集団を離れて見てみると、大きいように感じられていた集まりの思想も、ずいぶんと歪なものと知れてくる。そうしたならば妄想に拍車がかかって(*5)、いよいよ粗忽者の誕生だ。みんなが粗忽だったならば世界は馬鹿らしくなって面白いだろうになと時々考える。いや、すでに全員が粗忽だと言えないこともないのか。

 談志はよく「与太郎は本当に馬鹿なのか」と問う。観ている者もいないのに逸脱ごっこをして一人で笑うという非常に高度な遊びに興じる存在ではないか、というようなことを言う。このことにも通じているだろう。

 ・・・。今回はいつも以上に散らかった文章になった。着地もなく、なんだか宙に浮いたままで、まあそれも含めて、そのままを書こうという趣旨のものだから一向に構わないさと、自分を徹底的に甘やかす。

 

―――

 

*1:うすた京介の漫画『武士沢ブレード』で、主人公の武士沢が敵のアジトを発見して侵入する際に、「飛んで火にいる夏の虫とは、俺たちのことだ!」みたいなことを言うコマがある。ぼくはそのシーンになんだか救われる。

 

*2:標識、地図を見ないままに街のなかを彷徨うのにも似ている。道を間違えると街が見違えるのだ。

 

*3:用意されたもの以外に意味を見出すという行為は、思った以上に教えることが難しいだろうなとも思う。魅力的な先生や師匠というのは、そういったことを気づかせてくれる人のことを言うのだろうな。

 

*4:居直って、あとはどう責任を持つかということだろう。けれどもこの責任というのもまだなんだかよくわからない。

 

*5:やりすぎると危険だが。

 

     2017年7月19日(水)

 

せ①:銭湯

 今年に入ってから部屋を越した。それまでは知人とルームシェアしていたが、年明けのお参りのためにふらり立ち寄った町の雰囲気に心を奪われ、翌週には不動産屋でその付近の部屋を内覧し、はやばやと居住決定。その翌週に契約を済ませ、二月初頭から、ようやくの一人暮らしが始まった。風呂なし。そのために毎日、銭湯へ通っている。

 それまでは風呂など嫌いだった。湯船に浸かることなんて滅多になくてシャワーで済ませていた。それが銭湯へ行き出すと、湯に浸かるのが楽しみになってくる。いつ行っても熱い湯が用意されていて、身体を縮こまらせて入る必要がない、ゆったりとした浴槽。

 休みの日などに、まだ日のあるうちに銭湯へ行って、のんびりと風呂にはいり、外へ出ると暮れはじめている空なんてのは格別だ。帰りに一杯やって、となったら最高だ。自宅に風呂があれば便利に違いないが、そうではない生活の楽しみを享受している毎日だ。それに大げさに言えば、ぼくは付近で大きな風呂を七つくらい持っているとも言える。自宅にたった一つあるよりも、銭湯がいくつもある町で風呂なしの生活をするということの方が、なんだか心持のよい気がする。貧乏人の強がりだろうか?

 同じ銭湯へ毎日通っていると、常連の顔や行動がすこしずつ分かるようになってくる。湯船に浸かりながら般若心経かなにかを唱えるおっちゃんは、唱え終わる頃には身体中を真っ赤にして(*1)、開け放した窓の前で仁王立ちして涼む。身体がすっかりやせ細った、おそらくこの銭湯の最も長い利用者だと思われる、いつも両方のふくらはぎに湿布を貼っている爺さんは、ゆっくり時間をかけて(ただ動作が遅いだけだが)湯浴みすると、湯船へ浸かる前に、手すりに支えられて爪先立ちになるトレーニングを少しだけやる。閉店間際にスーツ姿で銭湯へやってくるおっちゃんは、ほかの客が放置したままの手桶や椅子を片付けていく(*2)。背中によくわからない図柄のタトゥーをした若者は、全身をさっさと洗って湯船にすこしだけ浸かるとすぐに浴場を出て行く。

 壁越しでは婆さんたちの会話が聞こえる。それに比べて男湯の方ではほとんど会話がない。あるとすれば複数でやってきた学生や社会人が交わすくらいで、それもあまりない。ほとんどが個人客だ。みんなが個人の時間を、誰にも邪魔されずに楽しんでいる。

 めずらしく若い女の声がすると、妙にそわそわしてしまうのが自分でも馬鹿みたいだ。何食わぬ顔でいつものように身体を洗うが、耳はしっかり向こうを捉えている。ちらと周りの客をみると普段通りなのだが、もしかすると彼らも平静を装っているだけかしらと思う。そのときばかりはみんなの意識が一致しているように思えて、男湯全体がなんだか馬鹿々々しくって笑えてくる。いや、あのふくらはぎに湿布をした爺さんだけは何も考えていないかも知れない。

 湯から上がると脱衣所で、マッサージ機へ身体を預けて寝息を立てているいつもの客がいる。一度はそれを使ってみたいなと思うこともあるが、その客がだらしない顔をして眠っているのを見ると、いやいや、機械に頼るでなく、自らで以って身体管理をしなくてはと念入りにストレッチをしたりなどする。火照った身体で、呼吸に集中しながらストレッチをしていると、背中から首から額から脇から尻から汗が次々に染みだしてきて、風呂に入った意味を思い返す。それでもまた汗を流すのも面倒だからと、タオルで拭って、パンツが尻にはりつくのを少し気持ち悪がりながら着替え、いつも柔和な笑顔の番台のおばちゃんに礼を言って銭湯を出る。心地よく外へ出ると、通りを歩く人がちらとぼくや銭湯の看板を見たりする。彼らは、ここに銭湯があることを知らなかったりする。あるいは知っていても関係のない場所なのだろうと思う。ぼくは、彼らのリアクションのそばを悠然と歩いていく。その瞬間の夕風の心地よさを、彼らは知らないのだなあとほくそ笑みながら。まったく、悪い性格のぼくだから困る。

 

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*1:志ん生が「江戸っ子の気質というのは痩せ我慢だ」というようなことを言っていた。誰もが熱そうな顔をする湯に、平然と、温いくらいの表情で長く浸かる、というような態度に、江戸っ子精神が表れている。

 

*2:いまでは、この片付け好きのおっちゃんがいないときは、ぼくがその仕事を引き受けることがある。まだまだルーキーには違いないが、少しずつは銭湯の風景に溶けこんで行っているだろうか。思い立って初めて他人の手桶などを片付けている自分に気がついた時に、少し嬉しくなったものだ。

 

           2017年7月19日(水)

 

 

 

す①:酢

 酢が好きだ。暑くなってきたから余計に。

 ある時期から、餃子は酢だけで食べるようになった。

 昨日、銭湯の脱衣所で身体を拭っている時に、番台のおばちゃんの観ていたテレビが酢を取り上げていた。そのなかで「餃子は酢と胡椒だけで食べる」という発言があって、スタジオの人たちが「えー」と驚くのを聞いた。いや、別に「そんなこと前から知っていたさ」と鼻を高くしたわけではない。これでまた酢の消費量があがるのか、ぼくが酢を使っているのを人が見ると「あ、あいつもあの番組をみて急に酢を使いだしたな」なんて思われてしまうのかなあと考えたりしていたのだ。

 ポン酢は美味しい。この万能なものを嫌いな人なんているだろうか。ぼくは生卵かけご飯(*1)へ醤油をかけるのに飽きてしまうとポン酢を使ったりする。夏などにはもってこいだ。カレーにも酢が合う。すっぱ辛いから、これもやはり夏にいい。

「す」で思いついたのが「酢」なのだが、他に書きようがない。

 

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*1:さまぁ~ずがバカルディだった時代のライブにこのタイトルのものがある。ぼくはこれが大好きだ。中学のときに食い入るように観ていた(*2)。ひさしぶりに見返したとき、冒頭での大竹の鬼気迫る演技に泣きそうになった。多分、その舞台に並々ならぬ熱意をもって、心血を注いでいる姿に、感動したのだろう。あの怒りに似た目つき、吐き出すようなセリフ。単なる「お笑い」というようなものでは言い括れない、素晴らしい作品だと思う。ロックンロールか?芸術か?わからないが、とにかく芸人の生きざまというものを垣間見られて、感動したのだ。

 

*2:さまぁ~ずとダウンタウン(*3)がぼくのお笑い観の中心に立っている。イッセー尾形や談志、志ん朝もいるのだが、この二組が幼いころに夢中になった存在だ。さまぁ~ずを知ったのは「内村プロデュース」だ。毎週欠かさずに観ていたのはこの番組だけだった気さえする。番組終了後、時折りスペシャル番組で復活していたが、企画は昔のものがよかった。それでも、彼らの最高にくだらないやりとりを久しぶりに観られるだけでも嬉しかったが。

 

*3:さまぁ~ずもダウンタウンも、いずれは項目を立てて詳しく書きたい。兄の影響もあって、小学校の低学年から「ごっつええ感じ」のビデオを借りて観たりなどしていた。松本の、おそらくはじめての映像作品である「頭頭」を観たのも小学生のうちだった気がする。思えば「頭頭」の影響は大きい。あの壮大な乗りツッコミ(*4)というか、すかしというか、たまらない。今になって観たいと思うが、VHSを再生できない。DVDで再製してくれればどれだけ嬉しいことか。

 

*4:もしかすると、いまこうして生きていることも、或る種の乗りツッコミの「乗り」の部分が現在進行中ということなのではないだろうか。ふと思ったから、それ以上には何も言えないのだが、或るボケに、逸脱に、グルーヴに乗っかっている最中なのだ。

 

              2017年7月18日(火)

 

 

 

し①:蜃気楼

 サトゥルヌスと出逢って以来、ぼくは「蜃気楼」というものをよく考える。それには他の要因も大きく働いている。見るということの不思議さだ。

 ぼくは視力が悪くて(裸眼で生活するのにそれほどには不便を感じないくらいではあるが)(*1)、ものが霞んで見えるのを好んでいる。加えて内視現象もよく観察する。また、暗闇のなかでものを見ていると、そのものが渦を巻くという体験(*2)が幾度もあるため、どうにも目でみる世界というのをそれほどには信用していないのだ。言ってしまえば、眼と脳とが共犯して、ぼくにこの世界を見せているに過ぎないということを考えている。とは言っても、手で触れてみればそれは間違いなくそこにある。世界を疑ってみてもたしかにそれの在ることが、余計に不思議に思えてくる。なぜそれはそこに在って、見ることが出来ているのか。この視覚としての蜃気楼というのは未だにわからないままだが、次のことは強く感じている。

「巨人の肩の上」という表現がある。現代に生きるぼくたちがさまざまなことを知り、遠くを見渡せるのは、偉大な先人たちの築いてきた歴史の上に立っているからであって、ぼくたちが過去の人たちよりもうんと賢くなったということではない、という意味合いなのだが、ぼくはこの「巨人の肩」を「虚人の肩」と変換して考えている。つまりは、先人たちが築いてきた上にぼくたちが居ることには違いないが、そうしてそのことに対するリスペクトもあるのだが、そのはじめの基礎からそもそも或るファンタジーを含んでいて、ぼくたちが立っている肩というのは、ちっとも確固たるものではないということを感じている。確固たるものは、人々の不断の念願や決意や努力の方にあるのであって、或る幻想、或る虚ろな基礎の上に立っているのだ。それを築き、信じてきた歴史をどうこう言うのではない。しかし、もしもその蜃気楼に住まうぼくたちが、蜃気楼のために生きづらく思うのならば、蜃気楼なのだから改変できるのだぞ、ということをあらためて認識しなくてはならない。どうも周囲の人々を観ていると、蜃気楼にがんじがらめになっている人が多いから(*3)。

 教育によって培われてきた世界観を鵜呑みにしたままでは、蜃気楼はどんどんと頑強になっていく。頑強になって窮屈にさせていく。そうして、いずれは自身もそれを補強、増築する側にまわってしまう。それに違和感を覚えるならば、思い描くことだ。

 

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*1:「み①:みること」「め①:眼」でいろいろ書こうとは思っている。

 

*2:暗くした部屋のなかで渦が巻かれていくのを見たとき、ゴッホの『星月夜』が思いだされた。それで、ゴッホもこれを観ていたのだろうなと思った。あの作品はよく「当時のゴッホの精神状態が表されている」などと書かれるが、断じて違う。彼はあの渦巻きを実際に観ていたのだ。

 

*3:もしも改変を望むならば、まずは今まで住んでいた蜃気楼に敬意を払おう。土地を耕すときに、家を建てるときに、まずは儀式をとりおこなうようにして。論理的だとか、合理的だとか言われる現代であっても、その理すらが或る蜃気楼であるならば、ぼくたちは太古の人々と大差なく、或る信仰のうえに生きているのだ。理に両手を合わせ、無理を通そう。

 

             2017年7月18日(火)

 

 

 

さ①:サトゥルヌス

 ぼくがサトゥルヌスと出逢ったのは去年の秋だ。昼間から喫茶店でコーヒーを何杯も飲み、蕎麦屋へ行って酒を飲み、また違う喫茶店でコーヒーを飲むなどしながらものを書いていた日の夜だ。

 深夜零時をとうに過ぎ、しかし頭はすっかり興奮したままで、布団のなかに入っても一向に眠られなかった。姿勢をあっちへ変え、こっちへ変えなどして、どうせ眠られないならと、ひさしぶりに宇宙のことを思い描いていた。際限のない思索の旅の途中、なんだかもう少しで大きなことが解りそうだと、はやる気持ちでいたぼくは、真っ暗にした部屋の宙に、突然、輪郭の曖昧な、けれどきっと井戸だろうと思われる円い深淵をみた。

 その井戸の内側から「これ以上は踏み込むな」というメッセージが直接ぼくの頭に届けられた。ぼくは急に怖くなって考えることを退けようと、布団を頭まで覆って、乱れていく息を必死になって落ち着けようとした。動悸は激しく、身体は芯から冷たくなっていくようで、この恐怖から逃れられるならば死んでしまった方がいいのではないかという思いすら立ちあがっていた。「やばい」と焦る一方で、ベランダから飛び降りる自分のイメージが反復され、「冷静になれ、冷静になれ」と何度も自分に言い聞かせた。

 しばらくして、ようやく落ち着いてきたぼくは、さっきのイメージはなんだったかと振りかえった。思いだすとまた少し脈が早くなる。井戸の向こうで目があったような気のするあれは誰だったかと思う間もなく、ぼくのうちに一枚の絵画が想起された。それがゴヤの描いた『我が子を喰らうサトゥルヌス』だった。布団のなか、スマホで画像検索をし、確かめてみると、もうサトゥルヌス以外の誰でもないように思えた。

 それではあのメッセージは、あれ以上にぼくが考えを進めていたならば、彼に頭から食いちぎられるということだったろうか。いや、とぼくは考えなおす。さまざまなフィクションや聞いた話で見聞きした、悟った者は発狂してしまうという情報がそのときに重なって、ぼくはもしかすると或る真理の手前にあのとき居たのではないかと考えた。そうすれば何故サトゥルヌスが現れたのかも合点がいく。彼が親を殺して王位に就いたように、彼自身も我が子に殺されてしまうという予言を聞く。それで、ぼくがその子どもだったのだと。なにか大きなシステムを暴くことでサトゥルヌスを殺める子どもなのだと。けれども、結局ぼくは恐怖のためにそこから逃げた。

 あの画の、狂気的な眼が怯えているように見えるのは、もっと言えば、悲しみを帯びているのは、「実のところ、おれもお前を喰らいたくはないのだ」という彼の本意を感じさせる。すると、悪魔として捉えられることの多いサトゥルヌスは多くの誤解を持たれているのではないだろうか。少なくとも、彼はぼくを発狂させず、殺めることもせずに、ぼくを危機から逃がしてくれたのだ。悪魔がそこに居たから、ぼくはそこから逃れられたのだ。もしも天使の顔貌であれば、ぼくはその誘惑にかられてベランダから飛び降りていたかもしれない。それは天使だろうか。天使の顔をした悪魔ではないか。もしもそれでも、それを天使と言うならば、ぼくはあの時に発狂して、死んでしまっていた方がよかったということになりはしないか。天使と悪魔という構図は思っていたよりも複雑らしいことだけがわかった。

 なぜゴヤのサトゥルヌスなのか。実家の父の書棚に堀田義衛の『ゴヤ』という分厚い本が何冊も置かれていたのを思いだして、ぼくはなんとなく血と知の或る流れのようなものを感じた。

 それから数か月後、父にゴヤのことを訊ねてみた。すると父は「西欧近代化の足音をはじめて聞いた画家がゴヤなんだ」と言っていた。それは堀田義衛の言葉なのだろうが、この近代というものからは逃れられないらしいことをぼくはそのとき考えていた。なぜルーベンスではなくゴヤなのか。きっと「頭から食いちぎる」というゴヤの殺し方がヒントになっている。この頭、思考、観念、それをこの身体から食いちぎることが、ゴヤにとっては重要だったのだろう。

 もう一度、夜の眠られない枕の宙でサトゥルヌスと出逢うことがあれば、ぼくはあの井戸の向こうへ歩んで行けるだろうか。そうして、彼を殺すことなく、ぼくも彼に殺されることなく、何事かを交すことが叶うだろうか。あの夜からそのことをよく考えている。そうして、これを書いているいま、もしかするとあれからずっと今もこうして会話をしている最中なのかもしれないと、ふと考えた。

 

           2017年7月18日(火)

 

 

 

こ①:コラージュ

 高校の美術の授業で製作したものが全部で四点ある。そのうち、はじめの作品がコラージュだった(*1)。これは、当時仲のよかった、そうして音楽や小説の話のできる唯一の友達だったH君の影響で制作したものだ。彼とはクラスだけでなく選択授業だった美術でも一緒だったのだが、彼の制作センスや技法が素晴らしかった。ぼくはそれまで絵筆で描くという行為しか知らなかったのだが、彼のすることを観ていると、なにやら文字や図をさまざまな縮尺で何枚も白黒プリントしたものを鋏で切り、紙のうえに糊付けしていっている。そうして、その上から色を塗っている。こんな技法があったのかと、ぼくはすぐに真似をした。家に帰り、母の書棚にあった英字本で要らないものを貰って、びりびり裂いていった。紙のうえに糊付けし、それを再び剥がすと、貼りついたままの箇所が残り、文字がかすんで残るのを発見して、これはカッコいいと繰り返した。外人の顔をプリントアウトして貼り、「昨夜、アイシュタインの脳を買ったんだ」というような言葉を書きこんで『胸いっぱいの愛を』というタイトルで提出した。先生が気に入ってくれたらしく、後日、県のコンクールへ出展することになった。その際になって『ニューヨーク』と改題したのが悔やまれる。

 これがコラージュとの出逢いで、ぼくはこの手法をいたく気に入った。もしかすると祖母の創るちぎり絵(*2)に幼いころから触れていたことが関わっているかもしれない。ちぎり絵とコラージュとはまったく別ものではあるが、筆ではなく、素材を切り、ちぎりして、台紙のうえで貼りあわせていく行為自体が好きなのかもしれない。それからしばらくして、父の書棚にあった『悲しき熱帯』をぱらぱらと読んで、レヴィ・ストロースのことを知った。「ブリコラージュ」というものを知ったのは、それからまたしばらく後だったかもしれないが、その概念はとても自然に理解された。このときに、創作活動と生きるという二つのことが、無自覚に、頭のなかで溶けあっていたのだろうと思う。

 大学時代から言葉に興味があった。いや、言葉遊びを好いていただけかもしれない。高校から大学のはじめ頃まではH君から教わったジャパニーズラップ(つまりTHA BLUE HERBやSHING02)を聴いていたこともあって、韻を踏むことやダブルミーニングに「ヤバい」「かっこいい」と夢中になっていたからだろうと思う(*3)。大学時代に言葉について深く学ぶことはしなかったが、それでも記号学に触れてみたりして、意味という不明瞭なものがはじめて意識されたように思う。

 言葉について考えはじめると際限がなく(*4)、そのことが一層に面白くもあった。あるとき、その際限ない穴を進み、興奮して眠られない夜にサトゥルヌスと出逢い(*5)、大瀧詠一の『それはぼくぢゃないよ』の歌詞(*6)にハッとさせられた。際限はやはりなく、そこにはなにもないのだと気がついた(*7)。そのことが、とても自然に「コラージュ」や「ちぎり絵」と結びついていった。この世界自体も、言葉や指示内容、意味といったものの貼りあわせによって表現されたものであり、この向こうに何を探しても意味は見つからないのだろうと。ぼくらは韻を踏み、ダブルミーニングや洒落でもって戯れているだけなのではないかと。その気付きの原点となったのが、ぼくにとってはコラージュだったのだ。

 

―――

 

*1:二つ目は美術教室にあった漫画『百億の昼と千億の夜』に影響された二枚一組の作品だ。ひとつには澄んだ青を背景にして、修正ペンで聖書の文字を書きこみ、地上に腕を空方へ広げた彼を書いた。もう一枚には、同じ彼を描き、背景を黒一色にし、上から赤ペンキを滴らせたものだ。当時、母親とイタリア旅行へ行った際に、バチカンサン・ピエトロ寺院にも入ったのだが、そこで感じた生理的な違和感にも影響されている。

 三作品目は「カンバスを越えなさい」という先生の助言を自分なりに考えた結果、カンバスを水平に置き、その下に新聞紙とガムテープでつくった樹木の根を這わせた。カンバスの上には剥き出しになった眼球や内臓といったグロテスクなものを粘度でつくって散りばめた。

 四作品目は、先生の助言がずっと頭に残っていて、人間の頭部の解剖図を書き、それをくしゃくしゃにして地中に埋め、しばらくしてから掘り起こし、それがあたかも太古の地層から発掘されたものという体で、レポートを書いた。クラスメイトの顔写真と名前を借りて、架空の大学教授や研究者としてレポート上に登場してもらい、それらしくするために放射性炭素年代測定などをすこし勉強したりなどした。美術の時間が楽しくって仕方がなかった。この頃がぼくの創作活動の原点になっている。

 

*2:祖母のちぎり絵に関しては「え①:絵描き」ですこし触れているが、もしかすると「ち①」であらためて書くかもしれない。

 

*3:言葉遊びを面白がっていたから、落語などもすぐに楽しめたのではないだろうか。

 

*4:埴谷雄高の『悪霊』をM君に紹介されて夢中で読んだことも影響しているのかもしれない。

 

*5:サトゥルヌスとの出逢いは「さ①:サトゥルヌス」で詳しく書こうと思う。

 

*6:「それはぼくじゃないよ、それはただの風さ」という歌詞。

 

*7:「し①:蜃気楼」ですこし書こうと思う。

 

          2017年7月18日(火)

 

 

 

け①:化粧

 化粧の出来上がりではなく、その過程が好きだ(*1)。

 ずいぶん前に、NHKのドキュメンタリー番組が化粧ルームを取り上げていた。鏡のまえに座って真剣な表情でメイクを施していく姿がとてもよかった。この感想を持つに至ったのには、もっと昔に、歌舞伎役者に密着する番組だったと記憶しているが、楽屋の鏡の前で白粉を塗るシーンをカッコいいと思って観ていたためだ。その楽屋での姿と、化粧ルームでの姿が重なり、「おお、戦の準備をしているのだな」という感慨を抱いたのだ。

 どうやら、こういった準備の姿を覗き見られることが面白いようだ。『EXテレビ』の企画で、上岡龍太郎がたったひとりスタジオで一時間を喋りとおすというものがある。そこで(*2)、「テレビが面白いのはふたつ。素人のやる芸と、プロの裏側」というようなことが語られていた。このプロの裏側、私生活というところに視聴者は食いつくわけで、化粧ルームのドキュメンタリーが面白かったということに繋げると、化粧を施した人たちは街を歩いている限り或る種のプロなのだと考え至る。だからあそこを覗き見ることに興奮を覚えたのだ。

 それでは、電車のなかで化粧をする(*3)というのはどうだろうか。よくその光景を見かけるが、あれはプロの裏側、私生活を覗き見ていることになるのだろうか(*4)。時間がなくって仕方がないという事情もわからないでもない。けれどもだ。

 問題なのは、公私の空間がごちゃごちゃになりはじめているということなのだろう。電車という公共空間のなかでさえ、人はリビングに居るような感覚でスマホを眺めている。それでは公私とは何かと考えると、頭が痛くなる。偉大な先人たちがさまざまを語っているが、そのことにぼくは疎い(*5)。

 すっぴんを見るということはひとつの達成だ。すっぴんを見たいがために男どもは頑張るのだ。エロスは秘匿されて生まれる(*6)。

 

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*1:もちろん出来上がりは可愛い方がいい。可愛い出来上がりに似せるのではない。真似するべきなのはその表層ではない。内側の態度だ。そうすれば出来上がりは自然とその人に合った可愛いものになるのではないか。そのためには真似をしたい人の、同時に自身の奥深くを覗かなくってはならないだろうと、他人事として考えている。みんなも自分密着ドキュメンタリー番組を創ればいい。

 

*2:別の番組でも語っている。たとえば、たしか談志との対談番組で。

 

*3:談志は「あいつらいずれ電車でタンポン替えやがるよ」と言っている。そこまで冗談にならなくなってきている気がする。

 

*4:ここで思いつくのがイッセー尾形だ。あの舞台の何が良いって、ネタとネタとの間の着替えシーンが観られるというところだ。通常では裏でする着替えを、表へ出てひとつの芸として完成させたことだ。暗がりの舞台の端で、かすかなスポットライトを浴びたあの背中。たまらない。電車内での化粧は、果たして芸と呼べるものか。

 

*5:安部公房の『箱男』を思いだす。「覗く/覗かれる」という関係性や、匿名の存在、等価性、平等、主体性、公共、幽霊。そういったことを考えなくっては。

 

*6:この秘匿に関しては「い①:井川遥」の注釈ですこし触れたが「も①:モザイク」で詳しく書く予定だ。

 

            2017年7月17日(月)