や①:やるせない

 漢字であれば「遣る瀬無い」となる。ぼくはこの意味を、舟を漕いでいて、どこにも舟を停められるような、そうして足をつけられて陸地にまで辿り着くことのできる、水深の浅い瀬が見当たらない様子から、「どうにもできない」思いと捉えていた。遣る瀬が見当たらずに遠くの方で波に揺られるままの情景が思い浮かぶ

 もともとこの言葉の語感、リズムが好きだった(*1)のだが、その意味や由来までは深く考えたことがなかった(*2)。この「や①」の項目を書くにあたって、それではちゃんと調べてみようと辞書を引き、ネットで調べたりしたことをまとめてみる。

 結果として「どうにもできない」という意味合いに違いはなかった。そこへ至るまでにぼくの方で少しの勘違いがあった。

「遣る」①物や人を遠くへ移動させる。

     ⑶物を先に進める。また、移動させる。

     ⑹心にかかることを払いのける。晴らす。

「瀬」①川の水が浅く人が歩いて渡れる所。あさせ。

   ②川の流れの速い所。はやせ。

   ③海流の流れ。潮流。

   ④置かれている立場。

   ⑤機会。機縁。場合。

   ⑥そのところ。その点。

「やるせない」①思いを晴らすことができずせつない。

       ②施すべき手段がない。どうしようもない。

    (weblio辞書「三省堂 大辞林」より)

「遣る」の言葉へ既に「思いを晴らす」という意味が含まれていて、「瀬」にも「立場、機会、そのところ」という意味があった。つまり「遣る瀬無い」は「思いを晴らすところが無い、どうしようもない」という語釈となる。なるほど。

 けれどもなんだか妙だ。いや結果としては、ぼくの考えていたものと辞書による説明とは大差ないのだけれども、このようにして言葉を分解してみると、なんだか味気ない。思いを晴らすことのできる場所がなくってどうしようもない、ではなんだかイメージが違うのだ。

 はじめに書いたように、遣る瀬の無さは、停泊できないままに舟で揺蕩っている情景なのだ。辞書では、どうにも直接的な説明すぎて野暮ったい。ここでの「遣る」は①⑶の「物を先に進める。また、移動させる」であって、舟を漕いで進むという単純な意味だ。「瀬」もまた水深の浅いところという単純な瀬だ。その単純な二つが組み合わさることで、しかし詩的な情景を思い浮かべることができるのだ。それが味というやつであって、だから「遣る瀬無い」は「遣る瀬無い」で充分なのだ。「遣る」や「瀬」に様々な意味合いをつけたり、隠喩的に用いたりせずとも、詩的情景は立ちあがるのだ(*3)。

 いや、もしかすると「瀬」は②「川の流れの速い所」として用いられているのかもしれない。だから「遣る瀬無い」は、「急流に浮かべて遠くへ払いのけることができない思い」となって、どうしようもできないという意味なのか。早瀬に遣れない思い。

・・・もうわけがわからなくなってきた。まあどちらにせ、どうしようもない感じなのはわかる。

 文字を空費してしまったような気がする(*4)。

 

―――

 

*1:いまはちっとも見かけないコンビ「やるせなす」のことも同時に思いだす。もしかすると、やるせないという言葉は彼らのコンビ名から知ったのかもしれない。言い心地の良いコンビ名だ。

 

*2:この言葉に限らず多くがそうだ。いちいち辞書を引くわけでもない。生活していて見聞きしたものをなんとなく受け取る。買ったばかりのゲームを説明書も読まないままに感覚と経験でプレイするのと同じだ。案外に、滞りもなく生活もゲームも進められる。しかし、それによって単純なコマンドを知らずに無駄なプレイを続けてしまったり、言葉が時代に流れていくこともあるから、辞書を引く、説明書を読むというのは、まあ大事ではある。

 

*3:どうやらぼくは逆ギレという状態に入っている。自ずから調べておいて「これは違う」とは何て身勝手だろうか。違うことはない。辞書はそういうもんだし。

 

*4:言葉の意味と立ちあがる情景とは少し違うということを書けただけでも良かったか。

 

   2017年8月12日(土)

 

 

 

も①:モザイク

 アダルトビデオにおいて、陰部にモザイク修正が掛けられていることを煩わしく思う時期があった。海外ウェブサイトが配信する無修正モノを知ってとびきり興奮した記憶もあるが、少し前から、どうもぼくにはアダルトビデオはモザイクの掛けられたものの方がよりエロく映るようになった。

 それはおそらく、ぼくの初めての出逢いが修正されたアダルトビデオとだったために、モザイク自体が興奮を催させる大事な要素としてあるからだろう。以下、そのことをもっともらしく補強していく話になる。

 モザイク修正というのは、非可逆変換処理が施されている。或る領域の色値を平均化したり、代表値を算出して塗りつぶしたりなどして、復元不可能に解像度を下げる処理のことだ。ビットやピクセルからなる画像や映像に限らないで、テレビ番組の放送禁止ワードに被せるピー音なども一種のモザイク加工と言ってもいいだろう。つまりは公共性や教育やなんかの面で悪影響になるだろうからという意味で対象を覆い隠す行為全般を、ぼくはモザイク修正と捉えている。

 このモザイク修正、冒険心(*1)という厄介なヤツが容易く嗅ぎわける。嗅ぎとって、そこへ、その奥へ向かわせてしまう。つまりは少年青年の心へ逆効果が働いて、秘匿という行為がエロティックに見聞きできてしまうのだ(*2)。大人たちが必死になって秘匿するものを何とかして暴いてやろうとする精神や想像力こそが、固いコンクリートに裂け目を生じさせるパワーの源泉となる(*3)。モザイク処理の向こうを知りたいがために、ぼくたちは頑張るのだ。

 このモザイク処理の「モザイク」という言葉の由来は、美術のモザイク画から来ている。小片を寄せ集めてひとつの作品とするようなものだが、このモザイク画の『モザイク』という言葉自体はさらに源を遡れるらしい。(ネット情報だからあやしさもあるが)女神ミューズに捧げられた洞窟に、小片を集めた装飾画があったために、古典ギリシャmouseion(ミューズ神の神殿)から派生してモザイクとなったらしい(*4)。

 言葉自体もモザイクだ。このときのモザイクは非可逆変換処理としてのモザイクでもあるし、小片を寄せ集めたモザイクでもある。

 ぼくたちは巧みに言葉を駆使してコミュニケーションをとり、思考をし、世界を捉え、生きている。言葉のおかげで、あるいは言葉を基にした記憶によって、世界は今のようにして在る。そうしてぼくたちは時折りに、言葉以前の世界に思いを馳せる。学習以前と言ってもいいかもしれない。しかし思い返してみても、その世界は一向に像を結んではくれない。詰まる処、その世界にはモザイクが、非可逆処理が施されているのだ。それと同時に、言葉は今の世界を見せている。その意味で小片集としてのモザイク画がこの世界を映している(*5)。

 この発見も、眼鏡をなくしてから気がついたことだ。裸眼という、像がうまく結ばれない世界を眺めながら、まるで視界全体にモザイクが掛けられたみたいだと思って、行き着いたのだ。ぼやけることによって視えてくるものもある。モザイクがあるからエロく映るものもある。だから、なんでもいいから、映像や画像の一部にモザイクを掛ければ、それは瞬間にエロくなる。まあモノによるが。

 それらしい形や輪郭のものにモザイク処理を掛ければ、それは陰部となる。たとえば、女性が持つ何の変哲もないマイクにモザイクを掛ければブロージョブやハンドジョブの最中っぽく見える。これはアイコラではないから肖像権を侵害しないのではないだろうか。在るものを隠すという意味で、水玉コラに通じているか。そもそも、肖像権の侵害の構成要件を知らないな。

 今回はまた随分と散らかった内容と文章になってしまった。いずれはちゃんとまとめて、モザイク論なるものを書いてみたいものだ。

 

―――

 

*1:冒険と聞いて思いだす映画は『インディージョーンズ』だが、ああいった冒険映画の主舞台はなんて言ったって洞窟だ。そこに穴があるからと言ってしまえば下品極まりないかもしれないが、間違いなく、洞窟や裂け目といったものは少年心を疼かせるエロスティークな存在なのだ。でこぼこと隆起する洞窟の内壁にゆっくりと手を這わせ、慎重に深部を目指していくこと、その深部には神秘的な宝物が仕舞われていること、

 

*2:衣服は脱ぐためにある、というような言葉を誰かが言っていた気がする。脱ぐために着るという無駄な行為にこそ文化がある。

 

*3:くるりの『男の子と女の子』を思いだす。この曲は上京したばかりの頃、或る女の子と宮下公園の階段に肩を並べて座って、イヤホンを半分コして聞いた、思い出の曲だ。

 

*4:ぼくもしっかりと理解していないから適当にここは流すとして、しかし、このモザイクの語源がミュージアムと根を同じくすることが嬉しい。美術館、博物館も、つまりはさまざまな作品を寄せ集めたところであり、一種のモザイクであるということだろう。そうしてそこに、或る物語を編むことがモザイクであって、ブリコラージュ落ち穂拾いでもある。モザイクは生きるためのエロスティークを与えてくれるのだ。

 

*5:だから何なのだと言われたら困る。

 

   2017年8月11日(金)

 

 

 

め①:眼

 眼は窪地にできた水たまりだ。池田山公園の、ひょうたん池の前でそのことを考えた。蚊柱の立つ水辺から空を見上げると、池を囲う木々の梢がまつ毛のようにして陽光を遮る。緑色の水の下では亀と鯉がのそのそ泳いでおり、景色を反映した水面にアメンボのつくる波紋がいくつも生まれ、梢の裏へ光を反射させている。その光が揺れるのは梢に吹く風のためか、アメンボの揺るがす水面のためかを考えるともなく考える。ぼくの眼には白血球が舞って、蚊柱と混じり入る。するとあの蚊柱こそがぼくの眼の内側にあるだろうかと自ずから錯視させ、梢をまつ毛と混同させる。ぼくの眼がひょうたん池と置き換わる。水鳥がぼくの眼のそばへ降り立って、じっとどこかを見据えている。いまにも、くちばしでぼくの目玉を突きそうだ。

 夜に、もしも池田山公園へ入園できれば、この窪地に月の降りそそぐ様が見られるだろう。叢雲に薄らと覆われて、怪しげな輝きを放つ月のそばに、ゴッホの眼が向けられ世界は渦を巻く。しかしそれの叶わないことが残念だ。夏季は十八時に閉園となる。

 眼窩に溜まった水が眼球であるならば、そこではアメンボや亀や鯉が泳いでいるはずだ。そうしてそれは白血球や視細胞の発火であり、塵の混入なのだろう。水面に反映された景色を眺めて、向こう側に世界を感じている。

 すこし前に、旧芝離宮のベンチに座って、半眼で原っぱを眺めていると、地震でもないのに地面が揺れはじめた。川村記念美術館に常設展示されているサイ・トゥオンブリの作品のように、地面は波うつように揺れていた。あれは、この眼で泳ぐアメンボや亀や鯉のためなのか、それとも、世界がはじめから揺れているためなのか。

 太陽をしばらく眺めたあとでまぶたを閉じると、まぶたの裏に緑色の印象が輪っかを結ぶ。赤く視える太陽がまぶたの暗がりのなかでは補色である緑色を残すからだ。詳しいことはよくわからないが、そうなのだ。ひょうたん池の水が緑色なのは、周囲の植物を反映しているためでもあるが、水中の藻などの植物のためでもある。それらは陽光を受けて生育していく。おそらく、はじめは澄んだ水だったであろう池も、太陽を長いあいだ見つめていたために緑が増していくのだ。すこしずつ霞んでいくぼくの視界と似ているような気がした。いずれぼくの眼も藻に覆われていくだろう。それをぼくなりに緑内障と呼ぶことにした。

 

   2017年8月11日(金)

 

 

 

む①:むなしさ

 ずいぶんと長いあいだ、ぼくは空しさの周りをぐるぐると歩いていました。ぐるぐる歩いていても景色はちっとも変化しないので、代わりにぼくはスコップで土を掘って、それをせっせと空しさのなかへ放り投げていきました。滴る汗や筋肉の痛みが生の実感というものを与えてくれましたが、辺りの土をすっかり掘り終える頃になっても、空しさは足元でぽっかりと口を広げたままでした。放り投げる土は音もなく底知れない方へ消えていって、すこしも堆積していっているようには思えません。今まで空しさの隣でおこなってきたすべてが徒労のように感じられてぼくは仰向けになって寝転がったのですが、遥か上空にもぽっかりと空しさが広がるばかりで、ぼくはついに気力を奪われてしまいました。

 ごろごろと、しだらのない寝返りをあーだこーだ打つあいだ、枕もとに一人の爺さんが立っていました。

 爺さんは、際限なくつづく深い穴の観光案内をしていると言いました。

「この穴を訪れる人の数も際限なく、わたしは彼らにいつも同じ話をして、さっさと引き返してもらうことに努めています。あなたのようにあまりに長いあいだ穴のそばに居ると、穴のなかへ身投げする人が出てくるものですから」

 聞くと、爺さんは無給で、ボランティアとして働いていると言いました。ぼくは起き上がって、爺さんの横へ立ちました。

「この穴の由来というのがいろいろと囁かれていますが、どれも確証のないものばかりです。この穴に惹かれて訪れる人の動機も色さまざまですが、以前には大きな建造物がここにあったという話を聞いてやってくる者が大勢います。彼らはその名残を探そうと躍起になって辺りを散策し、その崖の際まで身を乗り出して、遺物を手にしようとします。しかしここには何も残されていないことをようやくに知ると、とぼとぼと家路につき、帰るところのない者は穴のなかへ飛びこむなどします。

 私がはじめてここに訪れたのも、そのような、つまりは伝説にあるような遺物を求めてのことでした。あなたもここへ来る前、向こうの遠くからここを望むと、奇妙な輝きや、あるいは魔惑的な引力を感じたことだろうと思います。私も同様に、ここに金字塔があるように思われて、急ぎ足でやってきたのですが、どこを探しても、向こうで見た輝きの所在は見つかりませんでした。不思議なこともあるものだと、私は一度引き返して再度ここを望んでみましたが、もう金字塔は見られませんでした」

 こんな具合に、爺さんは先の長そうな話をはじめました。ぼくはその話を聞きながら、それを聞き終えたころにはきっとここから離れる決心をしているのだろうなと予覚して、少しく淋しい思いが立ちあがるのを感じていました。

「私も、あなた同様に長い間をこの穴のそばで過ごしていました。あなたと同様に、暇をすりつぶすようにして土を投げ入れ、空しさから逃れる方法を模索しました。けれども、これもあなた同様、すべては慰みでしかないように思われてごろんと寝転がり、諦観を浮かべていました。そのときにふと、ここへやってくる者のなかで子どものいないことを思いました。そうして、ああ確かに、と私の子ども時分を思い返しました。

 子どもに退屈はあっても、空しさが起こることは稀なように思います。空しさは死を恐れた後になってやってくるものだからでしょう。死から逃れるための生が、生自身に意味を見出そうとし、夢中になって生きて、しばらくの後に、果てなと振りかえるのです。なぜこんなになって自分は生きていただろうかと。そうして振りかえった時には、案外にも、死のことは忘れてしまっているのです。ただただ死を恐れて生に奔走していただけなのですが、自分としては、この生きることにこそ意味があったはずではないかと思いたくなるものです。空しさが現れるのは、意味を見出そうとするためなのです。意味を見据える目で世界を捉えたならば、世界はなんと空々しいことでしょう。意味などなかったのです。そこへ無理から意味を縫合し、増築し、頑強にしていくために、より一層にその中心は覆い隠されていきます。いえ、はじめから意味の無いことを知って、それでは生があまりにも不憫だからというので、そのことを覆い隠すために意味を拵えているのかもしれません。

 ここを訪れる人々は、少なからず、その奇妙な意味で拵えた建造物に頭を傾いだのだろうと思います。見惚れる心でか、懐疑の思惑でかは人それぞれでしょうが、どのベクトルであれ、惹かれてしまってここへやって来たのです。そうしてこのぽっかり口を広げた空洞のことを知って、しばらくを佇み、散策し、寝転がるなどして、去っていくのです。

 この深淵な穴はひとつの断絶でもあります。子どもだった頃のあなたと、今のあなたとのあいだを隔てる、乗り越えることの困難な断絶です。思い返すことはできても、立ち返ることはできません。意味というもののなかった頃に、今のあなたが戻ることはできないのです。あなたは既に根を切り落とされています。あなたは新たに根付く場所を求めてここへやって来たのかもしれませんが、ここには、根付くための土壌がぽっかりと失われています。

 さあ、それであなたはどうしましょう。それでも構わず、空しさに根を伸ばし、天空に蜃気楼を築きますか。いえ、それでも結構です。それとも地上に象牙の塔を拵えますか。それも結構です。けれどもこれだけは覚えておいてください。あなたがここを去っても、空しさはいつでもあなたと共にあります。それとの付き合い方というのを、あなたは死ぬまで考えることになるでしょう」

 

 ぼくは爺さんと別れました。

 家に帰る途中、路傍のコンクリートブロックをどけて、ダンゴムシの群れが慌てて身を隠す蠢きをひさしぶりに見ました。

 

     2017年8月11日(金)

 

 

 

み①:みること

 みることに違和感を覚えたのは、友人のハイキックを顔面に喰らって卒倒し、眼鏡をなくしてからだ。意識が戻ったとき、鼻や口から溢れでる赤い血が友人宅の白い洗面台を次々に染めていっているのをみた。眼鏡がないことにすぐに気がついて、友人に眼鏡のことを尋ねると知らないと答えた。しばらくして血が止まってから、自分の倒れた辺りを探してみたが、眼鏡はどこにも見つからなかった。

 車に乗るわけではないから、裸眼の生活はそれほど不便ではない。標識の文字がうまく像を結ばず、道を間違えることはあるが、そのために街が見違えて妙な興奮を覚える、そのことが嬉しいくらいだ。

 晴れた公園のベンチに寝転びなどすると、白血球が空に舞うのを眺められる。押し入れの中に引っ込めば、視細胞の発火が白い小雨のように舞い落ちるのを見ていられる。暗がりで見据えた物体は渦を巻きはじめ、ぼくはゴッホと出逢える。夜景を見下ろす陸橋の上から人々の輪郭がぼやけて重なる。半眼で望んだ対象は静かに波をうち、サイ・トゥオンブリを思いだす。まっすぐな道に立って前方を見つめると、ぼくの眉間は、一点透視図の消失点に貫かれる。

 みている世界は意想外に脆弱なようだ。手で触れられる頑強なコンクリートでさえも、ひぐらしの鳴き声を聞かせれば容易く瓦解してしまうだろう。本来は揺らいでいる世界を頑強にさせているのは決まってぼくたちの方だ。

 みることを疑うと、自分自身に疑念が生じる。世界をみている存在と、その世界をみさせている別な存在を内側に感じる。それは脳かもしれないし、バグかもしれない。ぼくはその正体を暴くことが叶わないままで朝を迎え、戸口に立って、ドアノブをまわし、奇妙な蜃気楼を歩いていく。そこには道があり、壁があり、家並みが続き、ビルがそびえ、車が行き交い、人々が喋りまくっている。それらはたしかにそこに在って、なにかしらかの役割を果たしたり、さぼったりしている。仮に、そこに在るすべていちいちへ触れるなどすれば、万にひとつくらいは、ぼくの手はそれをすり抜け、幽霊を発見できるかもしれないと空想する。この世のすべてに触れてまわれば、幽霊と幽霊のような存在に関するレポートを独自に書けるかもしれないが、いったいどれだけの時間を要するだろう。それが叶わないから、人々は、それらはそこに確かに在ると、とりあえずの結論をして毎日を過ごし、幽霊を見過ごしている。

 幽霊などいない。いるとすれば、ぼくの目と脳との薄暗いトンネルの中でうろついている。あるいは皮膚と中枢とのあいだや、あるパルスの内側で生滅していっている。

 みるほどに、世界は遠のいていく。だから半眼で、みるともなくみる。ぼくの目玉を思考から切り離すようにして空へ浮かべる。すると世界とぼくとの境界は曖昧となって、ようやく、ぼくは世界と交じりあっていく。それは夢のように揺らぐから、記憶は不確か曖昧のままで目玉に焼きつく。ぼくはそれを部屋へ持ち帰って必死に思いだす。目玉にルーペをあてがい、光量を微調整して、散り散りになってしまった、しかし、たしかな世界の光景を素描していく。

 ぼくにとって「みる」とはこんなようなことだ。

 (*1)

 

―――

 

*1:人の獲得する情報のうち、視覚情報が約八割を占めるという話をよく聞く。このことから視覚の重要性がよくわかるし、それは言葉にも連なる。英語で言うところの「try to」を日本語にすると「~してみる」という言葉になる。「試してみる」「見てみる」「触ってみる」「やってみる」というように、やたらと「~みる」が用いられる。それくらいに視覚が重要なのだろう。

 ふと、目によって獲得する情報は約八割、というこの数値が、宇宙を構成する物質のうち、不可視の、質量だけを持つダークマターダークエネルギーの占める割合に近いように感じられた。未だ判然としない物質やエネルギーの割合と、人が視覚によって獲得する情報の割合との近さというものに、奇妙なロマンを思った。ぼくたちは多くのものを見ているようで見ていない。この目のために、世界の八割を喪失してしまっているのではないだろうか。

 

    2017年8月10日(木)

 

 

 

ま①:間(*1)

「間」という言葉を知ったのはダウンタウンの口からだろう。

 などと書きながら「魔王」であるぼくを意識しはじめているから厄介だ(*2)。だから酒は良くない。いまは月曜日の朝。昨夜の早くからウイスキーを飲みすすめ、記憶なく朝が訪れた。ママチャリのペダルを重く漕いでいると、朝が嘘をついていた。ファミレスで雑炊を食べおえて、すこしリラックスした状態でUAの『甘い運命』を聴きながら、ぼくは魔王のことを思っている。魔が差しているのだ。

「魔が差した」と過去形で語られることは多々あれど、「差している」と現在進行形をとるのは珍しいのではないだろうか。一般的に、魔が差すことは悪いだろうから、魔に差されていることを知ればそれを払いのけるのが通例だろう。ぼくは今、確信犯的に、魔に差されている。それを受けいれ、魔を愛しはじめてすらいる。

 魔とは何だろうか。頭に「悪」が付くとサトゥルヌスとなるが、彼は意想外に良い奴だ。ぼくを自害させないために、彼みずからが死の淵に立って、ぼくへ「そのままだと君は死んじゃうよ」と警告してくれたのだから。その意味でも、ぼくたちに魔を差すのは天使の方だ。

 天使は、大抵が愛らしい顔貌でぼくたちに近づいてくる。ファイナルファンタジートンベリみたいに、包丁でぼくたちの脇腹を一突きだ。連中には気をつけなくてはならないよ。

 甘い囁きは蛇の舌の上だ。

 ぼくたちに悪魔と天使の区別が出来たならば、人生はどれほど楽で、退屈だろうか。

 彼らは互いに顔を交換したり、交換しなかったりするから、ぼくたちは余計に困惑してしまう。すると彼らは共犯してぼくたちをかどわかしているのだろうか。それでぼくたちはすっかりのぼせあがってしまって、足を滑らせてタイルに頭をぶつける始末だ。鉄の香りがたちあがる(*3)。

「魔法」というものがある。談志に言わせればイリュージョンというやつだ。ぼくがメラと叫べばファミレスの机は燃えて、ケアルと囁けば火傷が癒える。論理的トリックを逸脱しているから魔法は魔法たりえている。

 それならば、ぼくたちが愛を叫ぶことにも何かしらかの魔法が働いているのだろうか(*4)。それとも、これもミームの仕業と誰かが言うだろうか(*5)。

 魔法を使えるのならば何を唱える(*6)。

 魔に差されるべくして生まれている。魔に身を捧げている(*7)。それならいっそのことこの頭を(*8)。とぐろを巻いたこの脳みそを(*9)。

 

―――

 

*1:魔。

 

*2:間へ魔に入られたのだ。

 

*3:眩暈のなかで。

 

*4:恋にのぼせあがる若者がせっせと緞帳をあげている。

 

*5:世界は魔惑的に。

 

*6:魔法を使えるならば何と唱える?

 

*7:信心深く。

 

*8:クレーの天使がうつむいている。

 

*9:ぼくは魔に差されて。

 

   2017年8月7日(月)

 

 

 

ほ①:本当のこと

 本当のことを言うと、あるいは、本当のことを言おうとすると、ぼくの眼には涙がにじむ。

 そんな経験が何度かある。おそらく、一番はじめは家族の前で就職はしないということを告げたときだった。次は、数年前に女の子に告白をしたとき、そうしてつい最近、バイトの女の子を叱る時、わけもわからずに涙が滲んでいた。「わけがわからない」というところにヒントがありそうだ。

 たとえば、考えていることと思うこととが反対へ引きあうために、どうすればいいかわからなくなって泣くのかもしれない。

 もしくは、言おうとすることが、本心でないことを知って、必死に引き止めようと、目が涙を流すのかもしれない。

 もっと重要なことは、本当のことを言う相手がいるからかもしれない。本当のことを言えば相手を傷つけてしまうという罪の意識に反応しているのかもしれない。

 なににせよ、そのような経験はまれだ。普段から平気で嘘をついたり、本当だと思うことを話したりしても、ぼくの目に涙がにじまない限りは、それは本当ではないのかもしれない。真偽を見極めるひとつのセンサーを手にした気分だ。良いか悪いかはよくわからないが。

 これはぼくだけだろうか。皆も同じような経験や、機制が働くのだろうか。

 涙というものは不思議なものだ。有名な文句で、「悲しいから涙が出るんじゃない。涙が出るから悲しいんだ」というものがある。これは誰の言葉なのだろう。この言葉の通りだとぼくは思う。ぼくたちは少しばかり頭でっかちになってしまって、身体の反応に無頓着になっている。目の流す涙の方を信頼すれば、世の中はもっとクリアになるような気もする。

 涙の不思議さについてもう一つ書くと、ぼくは小さい頃、他人が目薬をさしているのを見てもらい泣きしていた。彼らの頬を伝う水分に、ぼくの目も反応して泣いてしまうのだ。そのことを少し前に思いだして、勤務先のスタッフに手伝ってもらい、まだもらい泣きできるかを検証してみたが、涙は流れなかった。ほんの僅かだけ滲む程度だった。これは一体なんなのだろう。異常な感受性なのか、だとすれば、ぼくのそれは薄れてしまっているということになる。それは少し残念な気がする。

 

   2017年8月6日(日)