ん①:ん

 高校美術の制作で『ン=チヤマ文明』(*1)という架空の文明の出土品を発表したことがある。思うと、ぼくは今もなお架空の文明をつくっている最中なのかもしれない。この事典は『ン=チヤマ文明』で用いられる事典であって、きっとそこで創作された物語などは、これを参照しながら解読すれば面白いものになるのだろう。

 この項目でもって「あ」から「ん」までの四十六音は一巡することになる。七月九日から書きはじめて四十三日で四十六音。何も書かない日もあれば、一日で三つも四つも書く日はあったが、一応は一日一音のペースで書けたということになる。飽きやすいぼくとしては上出来だったと甘やかし、これから拗音は省いて、濁音、半濁音の項目に移っていく予定だ。それらを合わせると七十一音。一日一音を続けていければ、一年後には五巡できている。頑張ろうとは気負わずに、気楽に続けていきたいと思っている。マイ事典という名の時空を越えていく日記です。

 さて、今夜は酒に蕎麦。

 

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*1:つまりぼくは「ウチヤマ」という苗字なのです。「u」という文字をひっくり返して「n」にして読ませる遊びをしたわけですが、いやはや、我ながら高校の頃はなかなか洒落ていた。

 

     2017年8月20日(日)

 

 

を①:を

「を」をキーボードでタイプするには「w」「o」と打つ。母音を「i」にすれば「ゐ」となり、「e」ならば「ゑ」となる。

 小学校で習った平仮名は「わ・を・ん」で終わる。「ゐ」や「ゑ」が使われなくなった歴史は知らない。読みの問題などがあるのだろう。昔と今とではものの呼び方がずいぶんと違うことは想像できる。つまりは言葉の持つ音楽の要素が変わってしまって、なおかつ当時の音源は残されていないのだ。

 日本語ラップは(ラップに限らないけれども)、音への言葉の乗せ方が変わってきている。佐野元春いとうせいこう、スチャダラ等、いくつかある日本語ラップ黎明期と比べると随分と変化している。日本語をどれだけ英語っぽく用いて向こうに近づけようかという試行錯誤の歴史なのだけれども、それは「r」の発音、つまりは日本語にはない巻き舌を日本語自体に使いはじめたことが分かりやすい例だと思う。これを使うだけで日本語は少しく崩れて英語っぽさを醸すことができる。あるいは言葉の区切りを単語の意味から切り離したりすることによっても、リズムを解き放つことに成功した。

 そんなようにして音楽としては格好よく、聞き心地のいいものになったけれども、一聴しただけでは詩を理解することが困難になってしまった(*1)。

「そんなのは歌詞カードを読めば済むでしょう」

と言われれば、返す言葉を懸命に探さなくてはならない。そうして今が実際にそうなのだけれど、違和感が残るのは誰しもではないだろうか。もちろん、意味が切り離されてしまっているから音楽として評価できないなんていうことはないし、むしろそのことによって言葉や音楽の面白味に揺蕩うことができるのも間違いない。

 そこで登場してもらうのが「ゐ」や「ゑ」なのだ。

 いま、ちらりとWikipediaで「ゐ」を調べてみると、

奈良時代には、ヰは/wi/と発音され、イは/i/と発音されて区別されていた。・・・・・漢字音では、合拗音の「クヰ」「グヰ」(当時は小書きはされていない)という字音があり、それぞれ[kwi][gwi]と発音され、「キ」「ギ」とは区別されていた。」(Wikipedia「ゐ」より抜粋)

 まだちっともわからないが、日本語なんだけれども日本語っぽくない発音によって妙に聞き心地のいい歌をつくることはなんだか出来そうな気がしてくる。既に挑戦している人もいるのだろうなア(*2)。

 いやそうだとしても、日本と外国という空間の隔たりではなくて、今度は今と昔という時間の隔たりによって意味は遊離してしまうか。

 平仮名表をぼんやり見ながら、ワ行の違和感満載な空白にこのようなことを考えた。すると次の「ん」も奇妙で仕方がない。

 

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*1:もしかすると、そのような「英語発音的な日本語ソング」のネイティブならば容易く理解するのだろうか。すると、ぼくの耳が既に古い時代のものということになる。アップデートしなくてはなア。

 

*2:水曜日のカンパネラには、英語っぽさよりも万葉っぽさを感じる。するとコムアイが昔の芸能に関心があることや、『ユタ』の琉球っぽい歌詞やなんかと通じてしっくりくるけれども、果たしてどうなんだろうか。(*3)

 

*3:ということを勤め先の店長に話してみると「それは既知の事実だと思っていたんだが」と一蹴された(*4)。この徒労。いや、自らでそこへ至れたことを褒めてやろう。これでもって今夜は蕎麦に酒でねぎらうことに決定した。

 

*4:しかしさらに抗おうとするならば、彼女らの言葉には日本語だとか、英語だとか、旧日本語だとかも越えていく、呪術的な言葉を感じさえするのは、ぼくが彼女らにどっぷり浸かっている証左だろうか。いや、言葉と音楽とは同じに根差していたのだ。渾然一体だからこそ、道理には引っ込んでもらわなくてはならない。

 

    2017年8月20日(日)

 

 

わ①:忘れ物

 小学生のころ、日の暮れはじめに忘れ物を取りにもどった冷ややかな下駄箱や廊下や教室には、秘密めいた何事かが潜んで蠢いているように思われた。それは学校の怪談にある類の事を彷彿させるからかもしれない。あるいは生徒たちのはしゃぐ声が、この耳に届かない程度で、未だに残響しているためだったろうか。しんと静まりかえった空間を、自然と足音を忍ばせて進み、教室の引き出しやロッカーから忘れ物を取りだして、急ぎ足で帰路についた。

「放課後」という言葉のもつエロティーク(*1)は廃墟と同様だろうと思う。かつては人で溢れかえった活況の場所の、人々が去ったあとの静けさが、怪談と猥褻の主舞台となる。

 人目がなくなるというのは余白が生み出されることに近い。誰も観ていない、誰も知らない余白があるからこそ、そこへ想像を馳せることができる。しかし、これは放課後や廃墟を外部から観ている者の話だ。

 一度だけ、休園中の西武遊園地へ入ったことがある。休園といっても、アトラクションが稼働されていないだけで、園内は人々に解放されている。しかし、それでも廃墟さながらに閑散としていた。メリーゴーランドの馬は虚ろな目を空方へ向けたまま静止していて、営業中ならば豪奢に着飾っているだろう「メルヘンタウン」の装飾はすっかり色をなくして佇んでいた。ここで遊んでいた子供や大人が、今ごろは別の場所ではしゃいだりなどしていること、休止中のアトラクションがこうして息を潜めているのを考えもしていないだろうことを思って、ぼくは妙な高揚を覚えていた。

 これは放課後の教室での秘め事に近いだろうと思う。人々の頭のなかに立ちあがらない、覆い隠されたような、裂け目のような空間での悪戯事なのだ。これを孔隙と呼んでもいいかもしれない。VUG(*2)だ。

 ぼくたちは、とりわけ男子はこのような場所を秘密基地として持っていた。山のなかや、草の鬱蒼とする空地や、机の下などに。女子はドールハウスなどがその役割を果たしていたのだろうか。そうして年を経るごとにそのことを忘れていくのだが、それはおそらく社会というものに覆われていくためだろう。忘れるというよりも、覆い隠されてしまう、書き換えられてしまう記憶や場所が、しかし感覚を凝らせばみえてくるものだ。休園日の西武遊園地や放課後の教室は、社会のつくる壁をすり抜けた先の、自由や想像に触れられる空間だ。

 忘れ物はそのような孔隙の空間にある。

 

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*1:高校にもなると、放課後の教室などは彼や彼女の秘め事の場所となる。当時、思いを寄せていた学年のマドンナが教室で彼氏と睦まじいことをしていた、という話を又聞きした。大胆なことをするものだなア、本当にそんなことがあるんだなアと、感心と嫉妬とその他諸々の感情が湧きあがっていた。

 

*2:地質学、石油学の用語で、岩石中に含まれる空洞のことを言う。バグ(BUG)を調べているときにこの言葉を知って、BUGとVUGに通じるものに興奮した。もしかすると「ば①」で書くかもしれない。いまのところ「バス」か「バグ」にするかを決めかねている。

 

    2017年8月20日(日)

 

 

ろ①:Lost in Translation

 この作品をはじめて観たのは、地元のクラブ(*1)のバーカウンターだった。奥のフロアでのプレイに気を遣ってか、店内環境のためになのかは分からないが、映画はミュートされて映像だけが流れていた。国も世代も異なる、言葉のわからない主人公(*2)に、字幕だけが頼りのぼくは自然と感情移入することができた。そのことが一層に作品の良さを際立たせていたように思う。ぼくは踊るつもりで店へ来たのだが、気がつけば映画の終いまですっかり見入っていた。

 ぼくは山口県に生まれ育ったが、父は東京の出身で、母は日本語の音声翻訳の仕事をしていたために、家では方言が使われることはなかった。テレビからはダウンタウンのコントやトーク番組での関西弁をしょっちゅう聞いていた。学校のクラスメイトは当然ながら方言を使いまくるし、ぼくもそれを喋るには喋るのだが、小学校のころに一番仲が良かったのは京都出身の友達だった。ぼくは方言のある地元にいながら、妙な言葉のなかで育ったように思う。

 そのことを意識したのは、大学を卒業する間近に地元へ帰省したときだ。人気のないホームに立って、改札を抜けると、懐かしい言葉が聞かれるのだが、それはぼくとなじまなかった。地元の友達と会って話をするうちにそれも解消するかと思われたが、それ以前に、久しぶりに会って話す友達自体と妙な隔たりを感じてしまっていた。それは向こうもおそらくそうだろうから余計に距離は遠のいて、ぼくは街からの疎外を少しく感じた。

 そんな折にこの映画を観たから感慨深かったのだろう。酒に酔っていたとはいえ、店から家まで帰る路は、地元でありながら気の落ち着かない遊離した心地のままだった。

 その翌朝に、懐かしい登下校路や公園やなどを散策した。道沿いの店や家が様変わりしている場所や、シャッターが閉まってすっかり陰気になった商店街を歩く。思い出せそうで、しかしそれの叶わない記憶は、きっと無くなってしまった物のためだろうと考えながら、遊離していた(*3)。

 

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*1:そこは本当に小さな箱で、フロアは六畳間くらいではなかっただろうか。イベント以外ではお客さんも少ない。けれどフロアを独占して踊れるから気に入っていて、帰省したときには必ず訪れていた。今は看板を変えている。

 

*2:彼の訪れたクラブは代官山AIRで、ぼくが大事な経験をした場所でもある。そんなこともあって、より一層に思い入れのあるクラブだ。

 

*3:映画にも登場した代官山AIRは、ぼくが幽体離脱めいた経験をした場所でもある。そのことも重なって映画を楽しめた。AIRは一昨年に閉店してしまっている。

 

    2017年8月14日(日)

 

れ①:檸檬

 梶井の檸檬は素晴らしい。それへのオマージュである、長尾謙一郎が描いた『PUNK』内での檸檬型の爆弾はつまらない。長尾は好きだけれど、あれはいただけない。

 檸檬は時折りぼくの頭のなかにぽこんと生まれる。それはわけのわからない涙と同様に、突然ぼくに襲い掛かるから対処の仕方をまだ知らない。

 たとえば昨年の夏、四万温泉へ二泊三日の一人慰安旅行をした帰りのバスのなかで、たくさんの檸檬が成った。バスが首都高速を滑りながら高層ビル群のなかに入っていくときだった。きっとそれまで田舎の空気を吸って、人のいないのんびりを楽しめていた反動から、都心に建ち並んだ虚栄やなどがぼくの嫌気を誘ったのだと思う。ぼくはそのとき檸檬ではなくて爆弾が欲しかった。灰緑色の人の血と暗渠を覆い隠す、退屈なファサードアスファルトをぶっ壊してしまって、溢れて飛び出して腐臭を漂わす下水やなどから逃げ惑う街を見たかった。そのことを思いながら手が震え、脈拍があがり、導火線には火がついていた。火の伝っていく線を両手で強く握り、歯を食いしばる。手のひらから汗が吹き出し、わずかな隙間から火がこぼれて逃げていって、火薬のところまであと少し。貧乏ゆすりがはじまって、呼吸を落ちつけようとするけれど、まぶたはかっぴらき、ビル群とその足元を行き交う人々を睨みつけ、そうする自分を叱りつけつづけた。

 バスが東京駅にほど近い停留所について降車する。肩で息をするぼくは電車に急ぎ、山手線に乗って、そこに居る全員を嫌った。激しい呼吸のために意識が朦朧としてきて、部屋へふらりふらりと帰った。何事もなく帰ることができて、死ぬように眠った。

 ひょっとするとこれを檸檬とは言わないかもしれない。けれど、ぼくのなかで檸檬は不発弾なのだ。それゆえに一層の恐怖とエロスが棚引いていく。

 

   2017年8月14日(月)

 

 

 

る①:流浪

 歩くことが好きになったのは、大学を半期だけ留年して卒業した後に、春までのあいだがあまりに暇すぎて、それじゃあ歩いてみよう、と友人と共だって東海道をぷらぷらする機会があってからだ。

 十二月の寒い時期に、寝袋とザックを背負って、横浜駅から西へ歩きはじめた。京都まで行く予定だったが、箱根を越えてからは長く続く静岡の海岸線に飽きてしまって、ヒッチハイクで名古屋まですっ飛ばした。名古屋から四日市まではまた歩いたが、いろいろとあって京都まで電車に乗った。

 このときに東海道で歩けなかった場所はなんとか歩いてみたいと思っていた。社会人になって、四日市で働くことになったのが幸いして、盆休みを利用して四日市から京都まで歩いた。そのときに通過した山間の村で、ひぐらしの鳴き声に囲まれたときは奇妙な異世界へ入りこんだような気分がした。

 それから数年前に、再び横浜から名古屋までを歩いた。このときは、箱根越えは電車だったが、以前には歩けなかったルートも往けて、東海道で歩けていないのは横浜から日本橋までとなった。しかし、この道を歩こうとは思えない。

 歩くことの何が良いかというと、それほどには無い。疲れるばかりで、一号線はどこも似たような景色だ。時折り越えなくてはならない丘や山などは良いが、どちらかと言えば、知らない土地で野宿をすることの方にこそ意義があるように思う。日の暮れはじめに、人気なく、雨風をしのげそうな野営地を探しながら歩く。眠られそうな場所が見つからなければ、住民に野宿のできそうな場所を訊ねたりなどする。それでも見つからなければ、見つかるまで歩く。公園や寺があればラッキーだ。橋の下もいい。良い場所が見つかれば早々に荷物を下ろし、寝袋を準備して、入念にストレッチをする。冬場だと、寝袋に入れた足先が凍えてしまうから、寝つきが少しでもよくなるようにポケット瓶のウイスキーをちびちちと呑む。近くから人の歩く音が聞こえると少し怯える。冬場、獣よりも怖いのは人だ。いや、向こうもこちらを怖がるだろうが。

 朝は、日が昇ると自然と目が覚める。澄んだ空気を吸いながら、公園であれば顔を洗い、タオルで身体を拭ってから出発する。

 一週間も経たないうちに、なぜこんなことをやっているのだろうかと自問がはじまる。屋根のある部屋を懐かしんだり、御馳走や女のことなどを考え、心は塞がっていく。日が暮れると一層に不安は増していき、なんとか気分を変えようとイヤホンで音楽を聴く。今までなんとも思っていなかったアーティストが良く聞こえたりする。彼や彼女らに励まされるように歩を進め、口笛が吹けるようになると気分は一新する。誰も思いついたことがないようなメロディが唇を震わせているような気がして、一号線沿いや田舎道を悠然と歩いていける。そんな夜は寝袋に入ってノートにメモをとる。あとで読み返すととても目もあてられない詩やなんかが出来上がる。

 公園で朝を迎えると、時折り物好きなおっちゃんたちが話しかけてくる。岡山県の或る公園で野宿をしていたときには、そこだけで三人から声を掛けられた。そのうち二人は若い頃にルンペンをしていて、そのワクワクするような話に耳を傾けた。おっちゃんの一人は四十年前にアジア十二か国を旅して、もう一人は開発前の、山だらけの日本を歩いてまわっていたという。大先輩たちだ。

「貧乏旅をするんならプライドはゆるめな。そうすりゃ飯は食える」

 そう言っていたおっちゃんからタイ焼きを貰った。美味しかった。

 もう一人はぼくが公園のベンチで目を覚ますと隣に座っていた。目が合うとその人は「行くぞ」と言って、ぼくに身支度を急かせて、近所の喫茶店へ行った。朝食とコーヒーを御馳走になりながら世間話をした。別れ際にお金をくれた。

 歩き旅の話は長くなるからひとまずここまでにしておいて、またいずれ書く。人生はなんとか生きられる。そのためにプライドはゆるめなくてはいけない。

 

   2017年8月14日(月)

 

 

 

り①:リュックサック

 小学校にもあがっていないくらいの小さな子どもたちが、リュックサックを背負ってとことこ歩いている姿をよく見かける。リュックサックは背負うものではあるけれど、あれらくらいに小さな子たちの背中で揺れているものは「背負う」というよりも「羽織る」と呼んだ方がいいくらいに軽やかに映る。そのことがいい。

 容量の少なそうな小さいリュックサックには果たして何が入っているのだろう。ぼくが幼い頃も同様にリュックを羽織っていたのだろうけれど、その中身がちっとも思いだせない。遠足などであれば弁当や水筒が入っているだろうけれども、街中で、親に手を握られて歩く子どもたちの背中には一体なにが入っているのだろう。ハンドタオル、ペットボトル飲料、ちょっとしたお菓子、そんなものだろうか。親にでもなれば知れるだろうけれど、遠目ではちっともわからない。

 ぼくがはじめて自分でリュックサックを買ったのは、大学一年の、富士登山の前だった。いまでも愛用している。最近いれているものは、銭湯セット(バスタオル、あかすり、シャンプー、石鹸、髭剃り、着替え)と、ノートPC、ノート、ボールペン、煙草、ライター、いつ混入したか知れないゴミ。これで容量一杯だ。通りを歩く、リュックを羽織った子どもたちみたいに、もう少し身軽になりたい。

 安い喫茶店の窓越しに座って「り①」を悩んでいると、子どもたちの姿を見かけ、思ったことを書いた。

 

   2017年8月13日(日)