ぢ①:ぢ

「ぢ」ではじまる単語がない。 昔には「じ」と区別される発音があったらしい。だから昔には「ぢ」ではじまる単語も発音もあった。 「適者生存かね」 男が言う。 発音記号はあるようだ。けれども、まだ「ぢ」が話されていた時期にすでにその発音記号はあった…

だ①:だらだら

旅行もはじめの頃は、夜にガイド誌のページをめくって翌日のおおよその計画を立てていた。 けれどもしばらくしないうちに、特別に物欲があるわけでも、グルメでもなく、必ず拝みたい景色というのもこれといってなく、どうも観光は苦手らしいことを知ってから…

ぞ①:ぞくぞく

見知らぬ土地のバス停や鉄道駅に立ち、目的地へ向かう乗り物を待つ長いあいだ、果たしてここであっているか、もう行ってしまったのではないかと心は浮き足だつ。道中の安全を願う素振りは見せず、けれども内心では異常に不安がっている。 辺りを見回すと、同…

ぜ①:ぜえぜえ

どうして私は上りはじめたと、長い階段の先を眺め上げて嘆息する。それなのに、次の段へのっそりのっそり足を運びつづけるのだから不思議だ。 モロッコ北部の山間にシャフシャウエンという小さな町があって、傾斜に青い家々が並び建っている。青くメルヘンな…

ず①:ずきずき

渓谷の、初心者向けのロッククライミングで擦り剥いた手の傷がシャワーで少し痛む。 インストラクターは無口にタバコを吸いながら、私の命綱を下の方で握っている。ロープはたびたび弛んで心もとない。けれども二十メートルほど登ったところで後に引くのも癪…

じ①:ジュラバ

ジュラバというのはフードのついたベルベル人の伝統衣装で、ジェダイの騎士やねずみ男も着ている。乾燥して砂風のよく吹くモロッコでは防塵の役割を果たしているらしい。 フードに顔を引っ込めて隠し、とぼとぼと歩いていく老人の姿を街でよく見かける。 袋…

ざ①:ざあざあ

旅先で雨に降られると、多くの人は残念と心を沈ませるだろう。予定もあるだろうし、水たまりを踏まぬようにと余計な心配もしてしまうだろうから。 旅先でなくとも、日常の生活で雨に降られるのは嫌だろう。洗濯物は乾かないし、恋人の機嫌も悪くなるだろう。…

ご①:ゴッホ

ゴッホのことをよく知っているわけではない。ゴッホの壮絶な人生や、そこから生まれた作品の幾つかを、本やテレビなどの又聞きで、断片的に覚えているくらいだった。 数か月前の或る晩の丑三つ時に、ぼくはゴッホの目と出逢ったような気がした。 そのときぼ…

げ①:現在

「世も末だよね」 喫茶店の隣に座る女たちが話していた。彼女たちがいったい何を見聞きして、そのような言葉を話したのかは終ぞ知れなかった。彼女たちは、ぼくが席に着いてテーブルの上のトレーや灰皿の位置を正しているあいだに、席を立って店を出て行って…

ぐ①:グループ

たとえば学校のクラスのなかで二つのグループをつくるのに適当なワードや共通項はなんだろう。男女で分けたのでは味気も色気もない。運動部と文化部とでは帰宅部がいじけてしまう。続柄では三つ以上できてしまうし、両親・単親とではむずがゆく、性体験の有…

ぎ①:擬人

点の三つある図像が人や獣の顔のように錯視されるのをシミュラクラ現象と呼ぶ。両眼と口、もしくは鼻の逆三角形をつくる三点というのが肝らしいけれども、漫画的デフォルメやキュビスムなどを通過した現代のぼくたちにとっては、おそらく三点も必要とならな…

が①:がらくた

酔って帰る夜道に時折りガラクタが落ちていて、酒でタガの外れた頭がそれを拾えと言う。そうして拾い集めたものが部屋に幾つかある。それらが散らかって転がっているのを眺めて、なぜこんなものをぼくは拾ってきたろうかと頭を抱える。頭を抱えるだけで別段…

キャンプ日記 9月9~10日

9日の土曜日午前、友人S君に誘われて、数年ぶりの野外音楽イベントへ向けて部屋を出る。午前十時半に東急武蔵小杉駅前で待ち合わせ。S君にピックアップしてもらうことになっている。乗る機会のすっかり減った東横線各駅停車は乗客も少ない。向かいに腰掛…

渦に巻かれて遠方へ

旧友と程よく呑み交わしたあとの自室で、 やるせなく乾いた時間を貪ろうとしても、 気分は一向に晴れてゆきはしない。 どうすれば後に鎖も残さず心持よく寝入られるだろうかと思案して深める酒が、 むしろ余計に意識を深い所から呼び醒ましていく。 降雨確率…

ん①:ん

高校美術の制作で『ン=チヤマ文明』(*1)という架空の文明の出土品を発表したことがある。思うと、ぼくは今もなお架空の文明をつくっている最中なのかもしれない。この事典は『ン=チヤマ文明』で用いられる事典であって、きっとそこで創作された物語な…

を①:を

「を」をキーボードでタイプするには「w」「o」と打つ。母音を「i」にすれば「ゐ」となり、「e」ならば「ゑ」となる。 小学校で習った平仮名は「わ・を・ん」で終わる。「ゐ」や「ゑ」が使われなくなった歴史は知らない。読みの問題などがあるのだろう。昔と…

わ①:忘れ物

小学生のころ、日の暮れはじめに忘れ物を取りにもどった冷ややかな下駄箱や廊下や教室には、秘密めいた何事かが潜んで蠢いているように思われた。それは学校の怪談にある類の事を彷彿させるからかもしれない。あるいは生徒たちのはしゃぐ声が、この耳に届か…

ろ①:Lost in Translation

この作品をはじめて観たのは、地元のクラブ(*1)のバーカウンターだった。奥のフロアでのプレイに気を遣ってか、店内環境のためになのかは分からないが、映画はミュートされて映像だけが流れていた。国も世代も異なる、言葉のわからない主人公(*2)に…

れ①:檸檬

梶井の檸檬は素晴らしい。それへのオマージュである、長尾謙一郎が描いた『PUNK』内での檸檬型の爆弾はつまらない。長尾は好きだけれど、あれはいただけない。 檸檬は時折りぼくの頭のなかにぽこんと生まれる。それはわけのわからない涙と同様に、突然ぼ…

る①:流浪

歩くことが好きになったのは、大学を半期だけ留年して卒業した後に、春までのあいだがあまりに暇すぎて、それじゃあ歩いてみよう、と友人と共だって東海道をぷらぷらする機会があってからだ。 十二月の寒い時期に、寝袋とザックを背負って、横浜駅から西へ歩…

り①:リュックサック

小学校にもあがっていないくらいの小さな子どもたちが、リュックサックを背負ってとことこ歩いている姿をよく見かける。リュックサックは背負うものではあるけれど、あれらくらいに小さな子たちの背中で揺れているものは「背負う」というよりも「羽織る」と…

ら①:ライ麦畑でつかまえて

何度も読み返した本だ。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』ではない。やはり『ライ麦畑でつかまえて』が良い。 はじめて読んだのは中三のときだったか。初読の感想はあまり覚えていない。けれども、それから高校で二度も読んだのだから、何かしらのつかえがあ…

よ①:夜

夜の、眠られるまでの時間の使い方が苦手だ。冷房も扇風機もテレビもWi-Fiもない六畳間ではすることが限られる。酒を呑みながら、TSUTAYAで購入した中古のアダルトビデオを鑑賞して、落ち着いたところで部屋を見回し、寝転がって、本を読むとい…

ゆ①:雄弁は銀

沈黙が金で雄弁が銀という格言が書かれているのはトマス・カーライルの『衣装哲学』らしいが、アマゾンのほしいものリストに長いあいだ入ったままで購入できずにいる。 この格言は、ずっと黙ったままでいろというわけではなく、然るべき時にはお口チャックし…

や①:やるせない

漢字であれば「遣る瀬無い」となる。ぼくはこの意味を、舟を漕いでいて、どこにも舟を停められるような、そうして足をつけられて陸地にまで辿り着くことのできる、水深の浅い瀬が見当たらない様子から、「どうにもできない」思いと捉えていた。遣る瀬が見当…

も①:モザイク

アダルトビデオにおいて、陰部にモザイク修正が掛けられていることを煩わしく思う時期があった。海外ウェブサイトが配信する無修正モノを知ってとびきり興奮した記憶もあるが、少し前から、どうもぼくにはアダルトビデオはモザイクの掛けられたものの方がよ…

め①:眼

眼は窪地にできた水たまりだ。池田山公園の、ひょうたん池の前でそのことを考えた。蚊柱の立つ水辺から空を見上げると、池を囲う木々の梢がまつ毛のようにして陽光を遮る。緑色の水の下では亀と鯉がのそのそ泳いでおり、景色を反映した水面にアメンボのつく…

む①:むなしさ

ずいぶんと長いあいだ、ぼくは空しさの周りをぐるぐると歩いていました。ぐるぐる歩いていても景色はちっとも変化しないので、代わりにぼくはスコップで土を掘って、それをせっせと空しさのなかへ放り投げていきました。滴る汗や筋肉の痛みが生の実感という…

み①:みること

みることに違和感を覚えたのは、友人のハイキックを顔面に喰らって卒倒し、眼鏡をなくしてからだ。意識が戻ったとき、鼻や口から溢れでる赤い血が友人宅の白い洗面台を次々に染めていっているのをみた。眼鏡がないことにすぐに気がついて、友人に眼鏡のこと…

ま①:間(*1)

「間」という言葉を知ったのはダウンタウンの口からだろう。 などと書きながら「魔王」であるぼくを意識しはじめているから厄介だ(*2)。だから酒は良くない。いまは月曜日の朝。昨夜の早くからウイスキーを飲みすすめ、記憶なく朝が訪れた。ママチャリの…