「ビンローの封印」観劇記

6月4日の日曜日。午後五時に新宿駅東口改札でT君と待ち合わせ、思い出横丁で一時間ほど飲む。酔い心地のなか、T君の先導で都心のオアシス花園神社へ。事前に彼が整理券を貰ってくれていたためにスムーズに列へ加わることができ、紅テントのなかへ。
 子宮のなかに居るような紅。前日に、友人の奥さんが子どもを宿したという話を聞いていたためにそう考えたのかもしれない。もしくは、初の観劇で、胎動するようなぼくの精神をあらわした紅だった。
 暗転してはじまった劇は、圧倒的な熱量と速度で、
「物語を読み解くな」
と言わんばかりに、ぼくを舞台、役者、空間から突き放しながら進んでいく。暴風の吹き込む海沿いのトンネルを歩いて進むような心地だった。ぼくはそこへ、向こうへ、しがみつこうと前のめっていく。役者の口から放たれる現実を遊離したセリフは、矢継ぎ早に襲う次のセリフに圧しだされ、飲み込まれ、霧消し、空間は変転しつづける。頭に残る言葉がない。舞台はすぐそこにあるにもかかわらず、足を止めて考えこんでしまえば容易に遠く隔たってしまうようだった。
ぼくがとうとう考えることを放棄した途端に、言葉が輪郭から外されて、ぼくは包摂された。意味をなくして漂いはじめたはずの言葉が、エッセンシャルオイルのように高濃度に抽出されて、ぼくにその香りだけを嗅がせる。これのことか、と感じた。はじめから舞台は、空間は、このような包摂する世界をシャーマニックに唄っていたのではないか。その空間とぼくとの繋がりを阻んでいたのは思考だったのではないか。鼻腔に触れた香りが或る記憶を直接に立ち上がらせるような仕方で、劇は、思考を、ぼくをはねのけていたのだ。そうしてぼくがぼく自身を振りほどくのを、劇ははじめから向こう側で待っていたのだ。
 用いられる言葉はたしかに言葉である。しかし、それはぼくたちが日常的に用いる言語感覚ではなく、いわゆるこれが身体的な言葉なのかと思うに至った。
 第一幕が終わり、ふらつく足取りで境内に設けられた喫煙所へ向かう。T君と顔を見あい、笑いあう。お互いがいま置かれている状況を把握できないでいるらしく、ああそうか、ぼくだけではなかったかと半ば安堵した。身体的言語! などということに思い至ったが、その半面で、単にぼくの読解力が著しく欠如しているだけなのではないかという不安もあったのだ。笑いあって、ぽつりぽつりと言葉を零す。「やばい」「なんだこれ」自分の言葉の足りなさを嫌に思いながら、しかしマゾヒスティークな恍惚を覚えてもいるぼくたちだった。
 十分間の休憩、簡易喫煙所の足下には地上へ溢れだす樹木の太い根、風も妖しい暗がりの境内。紅テントを横目に歩き過ぎて公衆便所へ向かう。排尿という現実にたずさわっていながら、精神は浮遊したままで、単なるトリップではないかと便所の無機質なタイルをじっと眺める。再開のアナウンスが発声されて急ぎテントへ潜っていく。
 第二幕はトリップそのものだった。そうして登場した、いや、はじめから舞台中央に置かれていた公衆便所。終盤に、観客の視線がその扉へ結ばれていく。扉は開かれ、製造は、大海に抱かれて、いや、便所の排水に流されるようにして、境内へ消えていった。それと同時に、紅テントという舞台空間に、境内という現実空間が開かれるようにして、ぼくが魅せられていた舞台を現実へ向かいあわせた。公衆便所が舞台中央に置かれつづけていたように、はじめから、ゆるやかに、ここと向こうとは繋がれていたことを知る。デペイズマンだ。ぼくの思考、身体、そうして紅テント、舞台、セリフ、それらが手術台のうえの蝙蝠傘とミシンとの出逢いのように合わさり、ぼくたちを異郷へと送っていたのだ。その異郷の地が、観劇中に体感されていたのだ。あそこには観客が居て、役者が居て、舞台があり、言葉があった。しかしぼくたちが真に居たのは、あそこを少し遊離した蜃気楼のような場所だった。
 劇は終わり、役者の紹介と挨拶が行われていく。突然だった。突然にぼくは、あの紅テントのなかで現実へ立ち返るように、我にかえるように促された。しかし、酒と興奮とが現実への帰還を、その心身の一致を遅らせている。日常言語で話される挨拶に、ほかの観客たちは緊張の緩和を覚え、笑っている。あのときに流れていた安堵感を、そのときぼくは嫌った。たしかに、あの場面で挨拶がされるのは、観客をスムーズに現実へと戻らせるためにも必要な慣例なのだろう。挨拶もなしに、緊張状態のままで境内へ、街へ出ていったならば、おそらく、人々は現実において失語症的に彷徨せざるをえなくなるのだろう。しかしどうだろう。あの空間にずっと置かれていた公衆便所は、街の至るところに当然の顔をして点在している。容易にあそこへ舞い戻らせる装置をぼくたちは知ってしまったのだ。あまりにも人間的な臭みと湿り気を漂わせる、思考の介在なしに時空を越えさせるあの公衆便所を。挨拶が続くなか、されるがままには現実へ還ることができずに、ぼくは、舞台空間と現実空間とのあいだで宙吊りにされていた。宙吊りにされたそこから覗きみるふたつの空間に、果たして大きな違いはあるだろうか。
 余計にふらつく足取りで喫煙所へ行き、一服。そういえばと、T君に話した。
「わけわからんけど、涙が滲んだわ」
 けして零れるほどではなかったが、あの滲んだ涙はなんだったろうか。ぼくの内側で、この紅い肉体のなかで、役者たちの交わす膨大なセリフと同様にさまざまな機構が働き、刺激と反応とが複雑になされ、たった一滴を滲ませた涙の所在が、いまはもうすっかり判らなくなっている。しかし、いずれ再びあの涙がフラッシュバックすることがあるだろうと思う。T君が言っていた。
「今はわからなくとも、時間が経ったあとに、知れず内側で、この体験がなにかしらかを形づくる」
 その時が近い未来に訪れるのをぼくは既に知っているような気がする。興奮の冷めないなか、近所の「ねこ膳」で記憶を失くすまで飲んだ。始発を待つJR新宿駅のホームを、黄色い線の内側すれすれに沿って歩いた。汽笛が鳴らされて、ぼくのすぐそばを電車が抜けていった。