い①:井川遥

 特別に彼女が好きだったというわけではない。それなのに「い」からはじまる言葉で何よりも先に彼女の名前が思い浮かんだ。

 当時(というのはぼくが中学一年生くらいの頃だから十五年以上前のことだ)、彼女はたしか「癒し系」というようなキャッチコピーで人気を博していた(*1)。けれども、キムタクや明石家さんまと一緒に出演したサスペンスドラマでひどい演技をして以降、しばらくのあいだテレビではみなくなった記憶がある。たしか彼女は劇中で殺されてしまうのではなかったろうか。もしかすると、あまりに演技がひどくって、急きょ途中降板という形で役柄を剥奪されたのではないかと、今ふと考えた。ドラマ自体も面白いものではなかったと記憶している。なんだかいやにハラハラとさせる音楽が使われていたはずだ(*2)。

 このようにあまり良い印象のない彼女の名前が浮かんだのにはもっとわけがある。彼女の人気が絶頂だったころ、ぼくは近所のコンビニで週刊少年誌をよく立ち読みしていた。それまではジャンプ一択だったのが、巻頭にアイドルの水着姿が掲載されている意味合いを知ってからというもの、マガジンやサンデー、そうして意を決してこそっと「ヤング」を冠した隔週誌に手を伸ばすなどしていた。そうして或る朝、中学校の教室で、そんなぼくの姿を見たと、当時好いていた女子(*3)がニヤニヤと笑って告げてきたのだ。

「昨日、井川遥みてたでしょ。わたし観てたよ」

 前日の夕時に、コンビニでマガジンを立ち読みしていたのはたしかだ。そうしてそのときグラビアを飾っていたのは井川遥でもあった。しかし、断じて彼女を熱心に見つめていたわけではない。いや、たしかにいつもの習慣でさっと目は通したかも知れないが、それほど興奮を覚えるようなものではなかったのだから(*4)、読んでいたのは掲載漫画の方にきまっているのだ。「いや、見てないよ」ぼくがすこしとぼけて、しかし強めに否定すると、彼女はそれ以上にはしつこく言及してこなかったが、なんだかずっと悪戯気に笑っていたことを覚えている(*5)。

 きっと性の目覚めと、その秘匿が暴かれるという体験が強く意識されてのことだろうとは思う(*6)。だから特別に好きでもない井川遥という名前が容易に、なによりも先んじて思い浮かんだのだろう(*7)。

 

―――

 

*1:本当は違うかもしれない。けれど正確なことは調べない。ここで書くことは社会の記録より以上にぼく自身の記憶を優先する。だからさまざまなところで隔たりが生まれるとは思う。

 

*2:今にして思うと、この頃からハラハラを誘う類の娯楽が好みでなくなったような気がする。ドラマや映画もそうだし、それまでたくさんプレイしていたRPGも、ボス戦での緊張感が苦手になってしまい手をつけなくなった。それからは畑を耕すゲームや、カクテルをつくるゲーム、ゲームを止めろというゲームをだらだらとやっていた。

 

*3:そのコンビニは彼女の親がオーナーだった。だから彼女もそこへ頻繁に出入りしていたのだろう。この事件以降、ぼくはそこで立ち読みする機会が減った。それでも立ち読みをしたい時は入念に辺りを警戒し、やがてコレはというものは購入するようになった。購入するようになって一層に欲は増していった。

 

*4:水着アイドルとしてすぐに思いだせるのは、ほしのあき熊田曜子山本梓酒井若菜、優香、乙葉眞鍋かをり安めぐみ杏さゆり井上和香森下千里小倉優子安田美沙子川村ゆきえだ(順不同)。ぼくのなかで井川遥はここには入らないのだ。そうして世間を席巻したイエローキャブは好きになれなかった。ちなみに中学時代に誰よりも夢中になったアイドルは平山綾だった。『ウォーターボーイズ』で彼女が自動販売機に飛び蹴りをくらわし、「コツがあんの」と缶ジュースを手渡す登場シーンは今でも鮮明に思いだされる。大きな瞳、いたずらッ気のある笑顔。

「唯高の鈴木くんでしょ?」

「え、なんで?」

「ずっと好きでした」

 写真集を買った。はじめてブログというものを知った。キャベツをたくさん食べるとおっぱいが大きくなるという謎が生まれた。彼女の出演するゲームを買った。くそつまらなかったが、親のいないとき夢中でプレイした。そのゲームの劇中歌が好きだった。たしか『オールドフレンド』という歌だった。歌詞は思いだせないが、メロディなら覚えている。

 

*5:彼女の表情を思い返すと、いつもその裏側をぼくに垣間見させるようなものだった。笑ってはいるが他を含み、そっぽを向いているがジッと観察しているような。けれども確かに彼女がそうだったのかは知らない。そういった裏を感じることが、妄想することが、好きになるということなのかもしれない。

 

*6:「*5」とは反対に、隠したい性という裏側を見られたことが、彼女との共犯関係をぼくの方でひとり勝手に紡いだのだろう。

 

*7:本当に好きではなかったのだろうか。現場を目撃されたことで必死に否定するあたり、大変に怪しく思われてきた。見ていないという自分への隠蔽が働いているかもしれない。しかし何にせよ、ここで重要なことは、「い」で思い浮かんだ「井川遥」という名前は、好きだった子との或るワンシーンのタイトルだということだ。