え①:絵描き

 物心ついたときから絵を描くのが好きだった。それは絵の上手い長兄の影響だ。十二歳はなれた長兄は自分でパロディ漫画を描いて、幼いぼくはよくそれを見て楽しんでいた。聖闘士星矢のパロディだったはずだ。長兄オリジナルの、丸いのっぺらぼうの顔に口だけを描いたキャラクターが聖衣を着て悪者と闘うようなバトル漫画だった。彼はぼくが小学校へ上がると美大進学のために実家を出ていった(*1)。

 次兄も絵が上手だった。彼が中学生のとき、美術の時間に制作した版画が県のコンクールに入賞して、ぼくは親と一緒にその展覧会へ行った。作品は、畳の上の椅子に腰掛けてテレビのリモコンを持つ、次兄の自画像だったと記憶している。

 兄二人の絵心は母方の血脈によるらしい。祖母はちぎり絵を長くやっていて力作が何点もある。皺々の祖母の手でちぎられる薄い和紙が台紙のうえで繊細に貼りあわされていく光景を、祖母の家の和室で観ていた(*2)。母も絵が上手で、作品というような立派なものを見たことはないが、何の気もなく少ない線で素描されたものがなんとも小気味よくって、きっと本気を出せば凄いものが出来上がるのではないだろうかと子バカのぼくは今でも思っている。彼らに比べると父は絵心がないらしい。自身でもそう言っていた。が、若い頃から映画俳優が大好きな父はポール・ニューマンだったかクリント・イーストウッドだかの横顔だけはすらすらと描ける。父はその横顔と一緒にファンレターを本人へ送ったことがあると言っていたが、酔っぱらって尾ひれをつけたのではないかとも思っている。

 こういう具合に、ぼくは家族の描く絵が好きだ。家族でなくとも、絵画を見るのは好きだ。しかし、本当に絵画を食い入るように観はじめたのは、佐藤春夫の表紙画にあった『花咲く木/パウル・クレー』をみて以降だ。それはまるでぼくのことを、ぼくの思考や視覚や精神をまるきり反映したような作品に思われた。それまでのぼくの鑑賞態度は、「これは何を反映していて、この文脈で云々」というように本で得たものに則って、あるいは解説を読むなどしながら理解しようとしていたのだが、『花咲く木』ははじめて、説明的な言葉を越えて、一目に、一息一瞬で心を奪われた。それは作品に出逢うまでのぼくの思考や何やらがあったうえでの、それらと一致したというような感動ではあるが、作品を読み解くという時間の経過などはなかった。今までの人生の経過すらを凝縮したような、いや、すっ飛ばされたような邂逅の仕方だったのだ。そのときの感想は「これだ!」(*3)というたった一言だった。絵画をごく身近に感じられたはじめての瞬間だった(*4)。

 ぼくにとっての絵描きというのは、まずは長兄がいて、彼を中心にした家族があり、そこから何かしらかのリンクがあってパウル・クレーがひとつの銀河系をつくっている。簡単に書くとそういうことだ(*5)。

 

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*1:長兄の描いた『虫の息』という作品が一度だけ何かの新人漫画大賞らしきものをとった。だからというわけでもないが、ぼくはその作品が大好きだ。そこから多大な影響を受けてもいる。手元にはその作品の掲載された雑誌はなく、いまでも読み返したくて、ひさしぶりに長兄に会った時にそのことを伝えると、「美化された思い出だろうよ」とそっけなく返された。

 

*2:祖母は眼が悪くなってしまって、いまはちぎり絵を制作していない。そのことが寂しくって仕方がなく、実家へ帰省する度に「もうつくらないの」と祖母へ尋ねてみるが、「もう目がダメなんよ。指先も震えていけん・・・」と零す。

 

*3:志ん朝の『井戸の茶碗』のなか、或る屋敷の窓の下を通る屑屋たちが、その屋敷に住まう若い侍にいつも顔を確認されることを不思議がって話しあっている際に、主人公の清兵衛が「それはわたしにかかわることではないか」とわけを説明すると、或る商人が手を一度パンッと叩いて人差し指を清兵衛へ向けて「それだ、それだよ」と言うシーンがある。この商人が「それだ」と手を叩いたときには、彼のなかで不思議がすっかり晴れたのだ。そうしてそれがとんでもないひとり勝手な思い違いであったとしても、彼にとってはすべてが理解された瞬間なのだ。ぼくの「これだ」と商人の「それだ」が近い感覚に思われないこともない。するとこれは落語でよく現れる「粗忽」とも通じるところがあって・・・この説明は余計な混乱を生む気がしてきた。

 

*4:絵画作品を身近に感じる瞬間は、その作品を眺めているときに限らない。パウル・クレーを知ってからは、街を歩いているとき、部屋の畳に寝転がっているとき、そのような何気ない生活の隙間に、以前にみたことのある絵画やそのニュアンスが入りこんで思考を奪っていくことがある。たとえばゴッホの目を、その内側を感じる瞬間がある。このことについてはいずれ別の項目に書こうとは思っている。

 

*5:ぼくのなかでは、祖母とパウル・クレーが繋がっているらしい。薄い和紙をちぎり合わせていく点描画のような、モザイクのような祖母のちぎり絵の雰囲気が、作品の掛けられたここでもなく、作品の描いたそこでもない何処かを、その作品の向こう側に漂わせていて、或る「見えないもの」を感じ取れるからかもしれない。たとえば古い家屋の、畳の上の祖母の眼差しや指先、刷毛や糊やピンセットなどの道具、小さな庭に植えられた知らない植物や白いレースのカーテンが揺れるのや、座卓のうえにあるおかきや煎餅、そういった風景が祖母のちぎり絵にはある。