く①:空気

 空気の澄んだところがいい。けれども空気の悪い都市生活に慣れてしまった。時々、そのことを身体の方で咎めてくれるために、風邪や何かの症状があらわれる。熱や汗や下痢や嘔吐や涙によって身体が洗われるのだ(*1)。

 しばらくぶりの帰省で、あるいは遠い旅先で体調を崩すことが度々ある(*2)。環境が変わることで緩み、解放される精神状態が、日常と悪戦苦闘していた身体にまで及び、高圧状態にあった病魔が一息に噴出されるからだろう。その段になって、日頃から身体に負担をかけていたのだなとあらためる。

 身体が不調を訴え、自浄すると、気分がすっきりする。実際に何かしらかのタンクが空っぽになったからだろうと思う。だから再びタンクが一杯になるまで生活を送ることができる。環境が変わり、身体が吐き出し、空っぽになることで、新しい空気を吸い込んでいけるのだ(*3)。

「空気をよむ」というときの空気は、余白として捉えられるべきだ。読むというくらいだから行間といってもいい。だからその空気から読み解かれるものは各個人によって千差万別だろう。問題なのは、空気をよんだあとのアウトプットのされ方だ。それが場の雰囲気を乱すと「空気をよめ」と注意されたりするが、その注意の仕方もよくない。空気はよんだのだ。よむというインプットはしたが、アウトプットの方が他の人たちと少し異質なだけなのだ。その異質、差異にもっと注意を向けなくてはいけない。同じ場の空気をよんで、彼はそれをどう解釈してアウトプットをしたのかというブラックボックスに光を当てなくてはいけない。それが会話の楽しみだ。もちろん、空気を悪くするアウトプットの方に問題は残る。場に程よく馴染み、かつ変化を与えるような、グラデーションを施すアウトプットが好まれるだろう。

 たとえば、四人が座卓を囲っている。座卓の上には碁盤があって、四人がそれぞれ碁石を持っている。けれどもその碁石は白黒ではなく、さまざまな色彩の碁石であって、もっと言うならばそれは水彩絵具だ。それをもって四人で囲碁をする。囲碁は陣取りゲームだというが、水彩絵具では境界が滲んで不明瞭になる。だから或る色のすぐそばに、それとは取りあわせのよくない色を置くと、混じりあって妙ちくりんに変色してしまう。そのことを人々は嫌がるのだ。だから、もしどうしてもその色を置きたいのであれば、囲碁みたいにはじめは遠くに置いてみるといい。ゲームが進んでいくうちに、遠くのその色が上手い具合に効いて、他の人々もアプローチの仕方を工夫したりする。ゲームが終わる頃には、或る箇所は妙な色の取り合わせで真っ黒になったり、あるいは余白のままの箇所も残るだろうが、その四人でしか生まれないものが出来上がっているはずだ。これを会話と呼ぶことが出来ればいい。こういう会話の出来るような空気の読み方がいい。たいていの「空気をよめ」という注意には、色や置き場所の指定が含まれているから厄介なのだ。それはもはや空気ではない。悪法だ。

 そんな悪い空気の都市にいるのだから疲れるに決まっている(*4)。

 

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*1:細野晴臣横尾忠則の『Cochin Moon』で、横尾忠則の言葉がサンプリングされている。「ぜんぶ出してしまった方がいい」というような内容だ。下痢することを目的としてインドへ行った細野晴臣だったが、口に入るものには最大限の注意をしていたという。けれどもその注意の隙間から常に願望が覗いていて、ついには氷にあたったらしい。悪夢のような時間が続いて、そのあいだに、横尾忠則が右のことを言っていたという。

 

*2:今年になって部屋を引越した。引越してから数日も経たないうちに、ひさしぶりに体調を崩した。そのときに、ここに書いたことを考えていた。

 

*3:母も、遠出をすると決まって体調を崩す。一緒に外国へ旅行したことが二度あるが、二度とも滞在先のホテルで寝込んでいた。一週間くらいの短い旅ではなくって、もっと長い滞在であれば、きっと母も、通過儀礼としての不調を乗り越えられ、新しくなった身体で活き活きと街を歩けるだろうに。

 

*4:空気をよむことが日本の伝統的風土だと言われれば、どう答えよう。空気をよむ人々は、なるほど、余白のうちで戯れているのかもしれない。しかし、醜いものとして映ってしまうのは何故だろうか。その内側、深層で自覚された戯れではないからか。

 

          2017年7月17日(月)