さ①:サトゥルヌス

 ぼくがサトゥルヌスと出逢ったのは去年の秋だ。昼間から喫茶店でコーヒーを何杯も飲み、蕎麦屋へ行って酒を飲み、また違う喫茶店でコーヒーを飲むなどしながらものを書いていた日の夜だ。

 深夜零時をとうに過ぎ、しかし頭はすっかり興奮したままで、布団のなかに入っても一向に眠られなかった。姿勢をあっちへ変え、こっちへ変えなどして、どうせ眠られないならと、ひさしぶりに宇宙のことを思い描いていた。際限のない思索の旅の途中、なんだかもう少しで大きなことが解りそうだと、はやる気持ちでいたぼくは、真っ暗にした部屋の宙に、突然、輪郭の曖昧な、けれどきっと井戸だろうと思われる円い深淵をみた。

 その井戸の内側から「これ以上は踏み込むな」というメッセージが直接ぼくの頭に届けられた。ぼくは急に怖くなって考えることを退けようと、布団を頭まで覆って、乱れていく息を必死になって落ち着けようとした。動悸は激しく、身体は芯から冷たくなっていくようで、この恐怖から逃れられるならば死んでしまった方がいいのではないかという思いすら立ちあがっていた。「やばい」と焦る一方で、ベランダから飛び降りる自分のイメージが反復され、「冷静になれ、冷静になれ」と何度も自分に言い聞かせた。

 しばらくして、ようやく落ち着いてきたぼくは、さっきのイメージはなんだったかと振りかえった。思いだすとまた少し脈が早くなる。井戸の向こうで目があったような気のするあれは誰だったかと思う間もなく、ぼくのうちに一枚の絵画が想起された。それがゴヤの描いた『我が子を喰らうサトゥルヌス』だった。布団のなか、スマホで画像検索をし、確かめてみると、もうサトゥルヌス以外の誰でもないように思えた。

 それではあのメッセージは、あれ以上にぼくが考えを進めていたならば、彼に頭から食いちぎられるということだったろうか。いや、とぼくは考えなおす。さまざまなフィクションや聞いた話で見聞きした、悟った者は発狂してしまうという情報がそのときに重なって、ぼくはもしかすると或る真理の手前にあのとき居たのではないかと考えた。そうすれば何故サトゥルヌスが現れたのかも合点がいく。彼が親を殺して王位に就いたように、彼自身も我が子に殺されてしまうという予言を聞く。それで、ぼくがその子どもだったのだと。なにか大きなシステムを暴くことでサトゥルヌスを殺める子どもなのだと。けれども、結局ぼくは恐怖のためにそこから逃げた。

 あの画の、狂気的な眼が怯えているように見えるのは、もっと言えば、悲しみを帯びているのは、「実のところ、おれもお前を喰らいたくはないのだ」という彼の本意を感じさせる。すると、悪魔として捉えられることの多いサトゥルヌスは多くの誤解を持たれているのではないだろうか。少なくとも、彼はぼくを発狂させず、殺めることもせずに、ぼくを危機から逃がしてくれたのだ。悪魔がそこに居たから、ぼくはそこから逃れられたのだ。もしも天使の顔貌であれば、ぼくはその誘惑にかられてベランダから飛び降りていたかもしれない。それは天使だろうか。天使の顔をした悪魔ではないか。もしもそれでも、それを天使と言うならば、ぼくはあの時に発狂して、死んでしまっていた方がよかったということになりはしないか。天使と悪魔という構図は思っていたよりも複雑らしいことだけがわかった。

 なぜゴヤのサトゥルヌスなのか。実家の父の書棚に堀田義衛の『ゴヤ』という分厚い本が何冊も置かれていたのを思いだして、ぼくはなんとなく血と知の或る流れのようなものを感じた。

 それから数か月後、父にゴヤのことを訊ねてみた。すると父は「西欧近代化の足音をはじめて聞いた画家がゴヤなんだ」と言っていた。それは堀田義衛の言葉なのだろうが、この近代というものからは逃れられないらしいことをぼくはそのとき考えていた。なぜルーベンスではなくゴヤなのか。きっと「頭から食いちぎる」というゴヤの殺し方がヒントになっている。この頭、思考、観念、それをこの身体から食いちぎることが、ゴヤにとっては重要だったのだろう。

 もう一度、夜の眠られない枕の宙でサトゥルヌスと出逢うことがあれば、ぼくはあの井戸の向こうへ歩んで行けるだろうか。そうして、彼を殺すことなく、ぼくも彼に殺されることなく、何事かを交すことが叶うだろうか。あの夜からそのことをよく考えている。そうして、これを書いているいま、もしかするとあれからずっと今もこうして会話をしている最中なのかもしれないと、ふと考えた。

 

           2017年7月18日(火)