し①:蜃気楼

 サトゥルヌスと出逢って以来、ぼくは「蜃気楼」というものをよく考える。それには他の要因も大きく働いている。見るということの不思議さだ。

 ぼくは視力が悪くて(裸眼で生活するのにそれほどには不便を感じないくらいではあるが)(*1)、ものが霞んで見えるのを好んでいる。加えて内視現象もよく観察する。また、暗闇のなかでものを見ていると、そのものが渦を巻くという体験(*2)が幾度もあるため、どうにも目でみる世界というのをそれほどには信用していないのだ。言ってしまえば、眼と脳とが共犯して、ぼくにこの世界を見せているに過ぎないということを考えている。とは言っても、手で触れてみればそれは間違いなくそこにある。世界を疑ってみてもたしかにそれの在ることが、余計に不思議に思えてくる。なぜそれはそこに在って、見ることが出来ているのか。この視覚としての蜃気楼というのは未だにわからないままだが、次のことは強く感じている。

「巨人の肩の上」という表現がある。現代に生きるぼくたちがさまざまなことを知り、遠くを見渡せるのは、偉大な先人たちの築いてきた歴史の上に立っているからであって、ぼくたちが過去の人たちよりもうんと賢くなったということではない、という意味合いなのだが、ぼくはこの「巨人の肩」を「虚人の肩」と変換して考えている。つまりは、先人たちが築いてきた上にぼくたちが居ることには違いないが、そうしてそのことに対するリスペクトもあるのだが、そのはじめの基礎からそもそも或るファンタジーを含んでいて、ぼくたちが立っている肩というのは、ちっとも確固たるものではないということを感じている。確固たるものは、人々の不断の念願や決意や努力の方にあるのであって、或る幻想、或る虚ろな基礎の上に立っているのだ。それを築き、信じてきた歴史をどうこう言うのではない。しかし、もしもその蜃気楼に住まうぼくたちが、蜃気楼のために生きづらく思うのならば、蜃気楼なのだから改変できるのだぞ、ということをあらためて認識しなくてはならない。どうも周囲の人々を観ていると、蜃気楼にがんじがらめになっている人が多いから(*3)。

 教育によって培われてきた世界観を鵜呑みにしたままでは、蜃気楼はどんどんと頑強になっていく。頑強になって窮屈にさせていく。そうして、いずれは自身もそれを補強、増築する側にまわってしまう。それに違和感を覚えるならば、思い描くことだ。

 

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*1:「み①:みること」「め①:眼」でいろいろ書こうとは思っている。

 

*2:暗くした部屋のなかで渦が巻かれていくのを見たとき、ゴッホの『星月夜』が思いだされた。それで、ゴッホもこれを観ていたのだろうなと思った。あの作品はよく「当時のゴッホの精神状態が表されている」などと書かれるが、断じて違う。彼はあの渦巻きを実際に観ていたのだ。

 

*3:もしも改変を望むならば、まずは今まで住んでいた蜃気楼に敬意を払おう。土地を耕すときに、家を建てるときに、まずは儀式をとりおこなうようにして。論理的だとか、合理的だとか言われる現代であっても、その理すらが或る蜃気楼であるならば、ぼくたちは太古の人々と大差なく、或る信仰のうえに生きているのだ。理に両手を合わせ、無理を通そう。

 

             2017年7月18日(火)