せ①:銭湯

 今年に入ってから部屋を越した。それまでは知人とルームシェアしていたが、年明けのお参りのためにふらり立ち寄った町の雰囲気に心を奪われ、翌週には不動産屋でその付近の部屋を内覧し、はやばやと居住決定。その翌週に契約を済ませ、二月初頭から、ようやくの一人暮らしが始まった。風呂なし。そのために毎日、銭湯へ通っている。

 それまでは風呂など嫌いだった。湯船に浸かることなんて滅多になくてシャワーで済ませていた。それが銭湯へ行き出すと、湯に浸かるのが楽しみになってくる。いつ行っても熱い湯が用意されていて、身体を縮こまらせて入る必要がない、ゆったりとした浴槽。

 休みの日などに、まだ日のあるうちに銭湯へ行って、のんびりと風呂にはいり、外へ出ると暮れはじめている空なんてのは格別だ。帰りに一杯やって、となったら最高だ。自宅に風呂があれば便利に違いないが、そうではない生活の楽しみを享受している毎日だ。それに大げさに言えば、ぼくは付近で大きな風呂を七つくらい持っているとも言える。自宅にたった一つあるよりも、銭湯がいくつもある町で風呂なしの生活をするということの方が、なんだか心持のよい気がする。貧乏人の強がりだろうか?

 同じ銭湯へ毎日通っていると、常連の顔や行動がすこしずつ分かるようになってくる。湯船に浸かりながら般若心経かなにかを唱えるおっちゃんは、唱え終わる頃には身体中を真っ赤にして(*1)、開け放した窓の前で仁王立ちして涼む。身体がすっかりやせ細った、おそらくこの銭湯の最も長い利用者だと思われる、いつも両方のふくらはぎに湿布を貼っている爺さんは、ゆっくり時間をかけて(ただ動作が遅いだけだが)湯浴みすると、湯船へ浸かる前に、手すりに支えられて爪先立ちになるトレーニングを少しだけやる。閉店間際にスーツ姿で銭湯へやってくるおっちゃんは、ほかの客が放置したままの手桶や椅子を片付けていく(*2)。背中によくわからない図柄のタトゥーをした若者は、全身をさっさと洗って湯船にすこしだけ浸かるとすぐに浴場を出て行く。

 壁越しでは婆さんたちの会話が聞こえる。それに比べて男湯の方ではほとんど会話がない。あるとすれば複数でやってきた学生や社会人が交わすくらいで、それもあまりない。ほとんどが個人客だ。みんなが個人の時間を、誰にも邪魔されずに楽しんでいる。

 めずらしく若い女の声がすると、妙にそわそわしてしまうのが自分でも馬鹿みたいだ。何食わぬ顔でいつものように身体を洗うが、耳はしっかり向こうを捉えている。ちらと周りの客をみると普段通りなのだが、もしかすると彼らも平静を装っているだけかしらと思う。そのときばかりはみんなの意識が一致しているように思えて、男湯全体がなんだか馬鹿々々しくって笑えてくる。いや、あのふくらはぎに湿布をした爺さんだけは何も考えていないかも知れない。

 湯から上がると脱衣所で、マッサージ機へ身体を預けて寝息を立てているいつもの客がいる。一度はそれを使ってみたいなと思うこともあるが、その客がだらしない顔をして眠っているのを見ると、いやいや、機械に頼るでなく、自らで以って身体管理をしなくてはと念入りにストレッチをしたりなどする。火照った身体で、呼吸に集中しながらストレッチをしていると、背中から首から額から脇から尻から汗が次々に染みだしてきて、風呂に入った意味を思い返す。それでもまた汗を流すのも面倒だからと、タオルで拭って、パンツが尻にはりつくのを少し気持ち悪がりながら着替え、いつも柔和な笑顔の番台のおばちゃんに礼を言って銭湯を出る。心地よく外へ出ると、通りを歩く人がちらとぼくや銭湯の看板を見たりする。彼らは、ここに銭湯があることを知らなかったりする。あるいは知っていても関係のない場所なのだろうと思う。ぼくは、彼らのリアクションのそばを悠然と歩いていく。その瞬間の夕風の心地よさを、彼らは知らないのだなあとほくそ笑みながら。まったく、悪い性格のぼくだから困る。

 

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*1:志ん生が「江戸っ子の気質というのは痩せ我慢だ」というようなことを言っていた。誰もが熱そうな顔をする湯に、平然と、温いくらいの表情で長く浸かる、というような態度に、江戸っ子精神が表れている。

 

*2:いまでは、この片付け好きのおっちゃんがいないときは、ぼくがその仕事を引き受けることがある。まだまだルーキーには違いないが、少しずつは銭湯の風景に溶けこんで行っているだろうか。思い立って初めて他人の手桶などを片付けている自分に気がついた時に、少し嬉しくなったものだ。

 

           2017年7月19日(水)