そ①:粗忽

 思慮に欠けるとか、落ち着きがないという意味だ。ぼくはこの言葉を落語で知った。「え①:絵描き」の注釈ですこしだけ触れたが、ぼくにもこういう面がある。というのは、なにか自分のなかで関連させられるような事があるとすぐにテンションが上がって「そうに違いない」と深く検討することもせずにアレとコレとを結びつけてしまう。世界は自分のなかで結ばれ、閉じている、と言うと少し格好はいいかもしれないが、要はそそっかしいのだ。

 けれども、それだからと言って自己卑下しているのでもない。思慮深く生きて、その度毎に慎重に考えを巡らせるのも良いが、それはぼくでない人のやる仕事だと考えている。

「飛んで火に入る夏の虫(*)」ではないが、ぼくは魚みたいに、疑似餌に惑わされ、かどわかされ、或るフックに釣り上げられて海の外へ飛び出していくのだ。そのときに伴う痛み(甚だしい勘違いで深く反省するような類)が、しかし思いがけないところへ連れ出してくれたりもする。その傷を治癒する過程で生まれるかさぶたが、よりオリジナルな空想事をつくるのに役立つのだ。

 誰も発見していないだろうと思えるような、秘密の場所へ行きたいがために、ぼくは粗忽であろうとしているのかもしれない(*2)。その手段として、ぼくはひとり勝手な妄想と連関とを繰り返す。

 外国人の口からよく聞かれる言葉に「日本人はシャイだ」というものがある。小学生はよくわからないが、授業や多人数での議論の場などでは、より大人になるにつれて、口数や挙手が減ってくるのを経験としてぼくも感じる。これには、不正解や少数でいることを恥とするような考えが生れ、育つためだ、という考えに概ね賛同できるだろう。またビジネスなんかでも、失敗を恐れることがせっかくのチャンスを潰してしまっている、というような話もよく見聞きする。これら恥や恐れというのは、外に正解を求め、外に真理らしきものを設定しているがために湧きおこるものであって(*3)、たしかに拠り所が外に在るというのは気が楽になるものだ。けれどもそれによって窮屈に思うのも事実としてあるだろう。いっそのこと「知ったことか」と居直ってしまえば随分と楽になるのだけれども(*4)。

 そのためにも妄想というのは大事だ。ひとりで楽しんでいるうちは誰にも迷惑をかけないでいられるし、そのなかで疑問も生まれてくる。甚だしく勘違いした解答を自分で拵えることもできる。その繰り返しが奇妙な閃きに繋がるし、またそれを獲得するためにも一人で居られる時間が必要になってくる。そうして一人になって集団を離れて見てみると、大きいように感じられていた集まりの思想も、ずいぶんと歪なものと知れてくる。そうしたならば妄想に拍車がかかって(*5)、いよいよ粗忽者の誕生だ。みんなが粗忽だったならば世界は馬鹿らしくなって面白いだろうになと時々考える。いや、すでに全員が粗忽だと言えないこともないのか。

 談志はよく「与太郎は本当に馬鹿なのか」と問う。観ている者もいないのに逸脱ごっこをして一人で笑うという非常に高度な遊びに興じる存在ではないか、というようなことを言う。このことにも通じているだろう。

 ・・・。今回はいつも以上に散らかった文章になった。着地もなく、なんだか宙に浮いたままで、まあそれも含めて、そのままを書こうという趣旨のものだから一向に構わないさと、自分を徹底的に甘やかす。

 

―――

 

*1:うすた京介の漫画『武士沢ブレード』で、主人公の武士沢が敵のアジトを発見して侵入する際に、「飛んで火にいる夏の虫とは、俺たちのことだ!」みたいなことを言うコマがある。ぼくはそのシーンになんだか救われる。

 

*2:標識、地図を見ないままに街のなかを彷徨うのにも似ている。道を間違えると街が見違えるのだ。

 

*3:用意されたもの以外に意味を見出すという行為は、思った以上に教えることが難しいだろうなとも思う。魅力的な先生や師匠というのは、そういったことを気づかせてくれる人のことを言うのだろうな。

 

*4:居直って、あとはどう責任を持つかということだろう。けれどもこの責任というのもまだなんだかよくわからない。

 

*5:やりすぎると危険だが。

 

     2017年7月19日(水)