て①:テレビジョン

 いわゆるテレビのことではない。いや、結局はテレビのことなのだが、ちょっと違う。

 数年前、或る女の子にフラれた早朝の東高円寺で、曇りがかった空の遥か上の方からぼくを覗き観ている存在を察知した。と書くと気が狂ったように思われるかもしれないからタネを明かしておくと、ぼくはそのときグデングデンに酔っぱらっていたのだ(*1)。それで、遠くから観られているという違和感を覚えて、キッとそいつを見返してやったのだ。酔ってはいたが、そのときのイメージは鮮明に覚えていて、昨年、テンテンコの『放課後シンパシー』のPV(長尾謙一郎作)に、アッと思うシーンが出てきた。それは、どこかよくわからない場所のリビングで、ブラウン管を見つめている宇宙人らしき存在が描かれた場面だった。

「ははん、おれはこいつらの存在に気がついたのだな」

 と、そのPVを観て思わず笑ってしまっていた。同じような被視感という類のものを、他の人も感じていることが少しく嬉しかった。

 それからぼくのなかで「テレビジョン」というと、いわゆるテレビより先に、どこか彼方で観ている/観られている感覚と言うものが思いつかれるようになった(*2)(*3)。

 アーティストの「Televison」も気にかかる。まだしっかりと聴いたわけではないけれど、きっとこのことにも通じているのだろうなと変に確信してしまっている。いや、きっと実際がどうであれ、ぼくの方で勝手に歪曲化して理解するに違いないのだから通じるに決まっている(*4)。

 テレビジョンの語源も、遠くを見るというようなものだったと記憶している。望遠。テレスコープとテレビジョンとではどう違うのか。スコープと言うくらいだから機材のことで、ヴィジョンだから視覚のことか。するとやはりテレビジョンと言うのはどこか超能力的な意味がある。まあ、テレビは超能力的だものな。原理を説明されても意味がわからない。テレフォンも、レコードすらも不思議だ(*5)。そんなこと言ってしまえばきりがない。わけのわからないものばかりだ。

 

―――

 

*1:このときの酔っ払い度は尋常ではなくって、その子の部屋へ集団で遊びに行っていたのだが、ぼくは変に舞い上がってしまってワインをたらふく飲んでいた。それで明け方に彼女が起きて皆の朝食をつくっている最中に、あろうことか、舌足らずに告白をしてしまったのだ。醜態をさらしておいてのあのタイミング、フラれるに決まっている。それなのにぼくは妙な怒りがこみあげてきて(なんて自分勝手な野郎だ)、それで空をキッと睨んだのだ。おそらくアレは、責任を空になすりつけたのだろう。

 

*2:この「見る/見られる」というのは、小学生か中学生の頃に観た『トゥルーマンショー』の影響が強いように思う。あれは傑作だったなア。ちょうどぼくも海で溺れてトラウマがあったことも重なって、ずいぶんと感情移入したものだ。それからアンドリュー・ニコル脚本の『ガタカ』と『シモーヌ』を観た。

 

*3:また、大学時代にYouTubeで見た『Dr.Quantum』によっても「見る/見られる」や「観察者の存在」というものにわくわくした。量子論はまるきりわからないけれども興奮する。

 

*4:あまりに恣意的だろうか。ときどき、世界を恣意的に見過ぎてしまって不安になる。不安になったり止んだりを繰り返して、挙句の果てには「ええい、知ったことか」とやけを起こす。それで自身を丸焦げにして、しばらく黙りこむ。そのとき、死んだ魚の眼をした自分の姿を鏡に視ていた。ひどい顔貌だったが、悪くもなかったように思う。最近、めっきり焼ける機会が減った。

 

*5:とても恥ずかしく思う。インターネット以前の技術で既に理解の範疇を越えてしまっている。わかりやすく「こうこうで、こうこう」と論立てて説明されれば、そのときは「うんなるほど」となるが、すこし時間が経つとまたハテナが浮かぶ。説明される以前よりもハテナが増えている。「テレ」が凄すぎる。ぼくの頭が悪すぎるのか? そうなると、喫茶店の隣の客の話し声が空気を震わせて耳に届いて音として捉えられることも意味がわからなくなってきた。際限がない。

 

      2017年7月23日(日)