と①:トーキングヘッズ

 ぼくはなにかに担がれている(*1)。あるいは、ぼくは或る一輪挿しの花である。そのことは、ぼくが我を忘れ、我にかえったときにはじめて思われたことだ。つまりは、不確かな所在をどう説明するかの話だ。

 そのように考えるのは、もしかすると、ぼくが一度だけ幽体離脱に近いような体験(*2)をしたことが大きく関わっているのかもしれない。そのときの妙な心持が、フラッシュバックではないが、ふとしたときに訪れるのだ。

 たとえば銭湯で長く湯に浸かってのぼせてしまうときや、入眠へ移行する際に、わずかだけ働いている意識が夢の入り口を察知して、ぼくはぼくの所在の手掛かりを感じる。それは蜃気楼めいて、足元のおぼつかない、とりとめようもない存在の仕方なのだ。

 Talking Headsの『This Must Be The Place』の歌詞に、

feet on the ground, head in the sky

という言葉が出てくる。この「head in the sky」が好きだ。あるいは、ジャコメッティ(*3)特有の細長い人間の立像も、地上の足と大きく離れた箇所に置かれた頭部という関係で観れば「head in the sky」感としてぼくなりに理解できる。あの立像も、人間の一輪挿しを表しているように映る。

 一輪挿しの花は根を切断されている。それでも水の上に浮かばされ、花を咲かせている。ぼくたちにそっくりではないだろうか。言語や理性を獲得することによって、あるいは二足歩行によって目や鼻が地上から遠く離れたことによって、ぼくたちは自然の円環から切り離され、こぼれ落ちていった。度々に根無し草と喩えられるぼくたちは、その痛みを伴った切断面に手を這わせ、太古のことを思いかえしたりなどする。なぜこうなってしまったかと近視眼で歴史を振りかえりはするが、断絶された彼岸を望むことは叶えられない。すでに死んだも同然なのだと悲観的になり、しかし、それでもなお頭のてっぺんで花を咲かせているこの生に困惑する。あの一輪挿しが、その様を映し、伝えているのではない。それはただそこにあっただけであり、ぼくがそれをふと見出しただけなのだ(*4)。そこに意味があるわけではない。右の歌詞の続きが、

it's okey, I know nothing's wrong, notihing

とある。何度励まされただろうか。根を切断されて水に浮くぼくではあるが、この水を隅々まで吸い上げ、蒸散(*5)させて、花の枯れるまでは、ただ生きるだけだ。

 

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*1:担がれる、という表現が好きだ。それを好きになったのは、このブログで度々登場する落語『井戸の茶碗』を観たためだ。清正公さまの前の掛け茶屋で、商人たちが若いお武家様の噂話をしている。そうして一人の男が嘘八百を並べて、それに騙された者が「なんだ、担がれちゃったよ」と言うのだ。

「担ぐ」①物を肩の上にのせて支える。

    ②自分たちの上に立つ人として押し立てる。

    ③迷信・縁起などにとらわれる。

    ④からかってだます。

    ⑤婦女を誘拐する。

        (「三省堂 大辞林」より)

 この噺では④が受身形で用いられているわけだが、頭は①の意味で身体に担がれているし、理性や自我などと言われるものも②の意味で代表されたような存在だ。そうして様々にかどわかされている、という意味で③と⑤として担がれているぼくたちではないだろうかと思うのだ。

 

*2:学生時代に通っていたクラブのフロアで、ぼくは酒にひどく酔っぱらって踊り呆けていた。そうして突然に、コンセントを引き抜かれでもしたように、ぼくはその場に崩れおちた。そのときのスロー映像が焼きついている。ぼくは周囲の人に覗かれ、ぼくはその様子を彼ら取り巻きのさらに上から眺め下ろしていて、そこへ、一緒に来ていた友人がぼくを起こしにやってくる。ぼくは彼にひきずられ、バーカウンターのあたりで他のお客から白い目で見られ、友人はセキュリティに何事かを言って道を開けてもらっていた。階段をのぼっている頃に、ぼくの意識はすこしずつ身体の方へ戻って来て、外へ出ると小雨が降っていて、それが頬に冷たく当たってぼくは目を覚ました。友人の肩を借りながら近くの陸橋まで歩き、そこで一休みした。クラブの方をふりかえると、白い小雨のなか、どこかの店の看板の文字が「WELCOME」と輝いていた。

 

*3:二週間ほど前に国立新美術館で開催されていた『ジャコメッティ展』へ行ってきた。本当は、同美術館の『東南アジアの現代美術展:サンフラワー』を目的にしていたのだが、それをまわってみて、なんだか消化不良の感がひどくって、遠くへ足を延ばしたのだからせっかくだしついでに、くらいの気持ちで『ジャコメッティ展』の切符を買っていた。前週に、川村記念美術館マーク・ロスコサイ・トゥオンブリに出逢ってから、ものの観方がすっかり変わっていたぼくはジャコメッティに完全にやられてしまった。

 

*4:「それ申楽延年の事態(ことわざ)、その源を尋ぬるに、あるひは佛在所より起り、あるひは神代より伝はるといへども、時移り、代隔りぬれば、その風を学ぶ力及び難し」by岩波文庫風姿花伝』10頁

 

*5:だから、世界は蜃気楼然として映るのかもしれない。

 

      2017年7月26日(水)