ぬ①:抜け殻

 子どもの頃は、蝉の抜け殻を見つけてよく喜んでいた。抜け殻の、透きとおる色と光沢と、ヤワな感触が相まって、宝物のように思えていたのだろう。それを見つけると、今でも、少しく嬉しい思いがする。

 度々、路傍で抜け殻を見かける。人に捨てられたゴミのことだ。中身のないペットボトルや吸い殻、レジ袋、お菓子の外装、軍手、骨の折れたビニール傘。まだ中身の残っているペットボトルもよくある。それらは落とし物ではなく、やはりゴミなのだ。それらを飲食し、使用していた者にとって、すでに意味や機能を損なった抜け殻だから、捨てられていく。

 抜け殻は、たとえばボランティア清掃員によって拾われ、一所に集められる。集められるとゴミ回収業者が引き取って、処理場へと運び去る。転がっていたひとつひとつは見映えの悪いものばかりだが、うず高く積もった処理場のゴミ山を遠くから見ると、色さまざまで妙に綺麗だったりする。その色味は、なんだか仏教の五色の旗を思い起こさせる(*1)。

 抜け殻は不要となった外皮だ。その中身は、たとえば空を飛んでいたり、人の身体の中を流れていたり、やがて土へ還っていったりする。意味機能が失われ、そこら中に横たわっている亡骸だ。

 その延長で、ぼくはいつも言葉のことを思う。いまこれを書いている安い喫茶店では、さまざまな言葉が飛び交っている。ヒンディー語(*2)も話されている。言葉が現に話されているということは、言葉は意味を持って人々のあいだを行き交い、生きているということなのだろう。話される言葉は空気を震わせてぼくの耳にまで届き、頭の中で意味を花咲かす。この店を出ても、そこら中で言葉は放たれている。たしかに言葉はある。けれども、なぜ言葉と抜け殻とがリンクされるのか。と、ここに打ち込む文字は言葉であって、ぼくはそれを見て意味を受け取る。

 言霊という言い方がある。きっとそのことに通じている。言葉が力を失ってしまっているとぼくは考えているのかもしれない。街に溢れかえる言葉に嫌気がさして、そう考えているのだろう。そうだ。街には言葉が溢れ、捨てられていっているのだろう。喧伝する文句ばかりが投げられ、道端に転がっている。

 言葉が大事にされていないのだ。そこに罪の深さを視る。いや、このようにして言葉を連ねているぼく自身に対しても、時折り罪悪を感じる。言葉を用いるというのは、業の深い行為なのだ。葬りの場に立つ職のように、あるいは、屠殺場や厨房に立つような、穢れのある職のようにして、ぼくは言葉に刃をいれているのだ。

 そこにある言葉は既に抜け殻だ。中身はどこかを浮遊している。ようやく檻から出られたように、心地よく漂っている。

 けれども、少年が虫取り網で宙を掻く。捕まえられた蝶が虫かごに入れられる。内臓を抜かれ、標本となる。それは抜け殻だ。

 それならば、ぼくが書くということも単なる標本化にすぎないのだろうか。いや、言葉はするすると網目から脱け出ていくだろう。言葉は蛹のなかで自己変容しながら時代を横断し、時折りぼくの元へ訪れる。ぼくはそれを手に取って、まじまじと見つめてみる。それは既に抜け殻だ。言葉はすぐにそこから飛び立っている。ぼくはそこに宝石のような喜びを見出す。透きとおった、光沢のある、ヤワな感触を残す抜け殻を見つめる。

 そのような、言葉の輝く瞬間がある。それは音楽に似ている。くすぐったそうに、愛撫されたように、喜ばしく輝く言葉は、音楽だ。メロディはメレー(節)の集まりだ(*3)。ぼくは抜け殻を集めて或る音楽を奏でたいのだろう。(*4)

 

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*1:学生時代にネパールへ行ったことがある。ゴミ焼却場と、カトマンズの寺院の色彩やパシュパティナート(火葬場)とがリンクして、このように思うのかもしれない。ジャナクプルのミティラン画や、彼女たちの着ていた衣装。

 

*2:これを書いている喫茶店でヒンディー語を耳にしていたために、ネパールのことが自然と思いだされたのかもしれない。

 

*3:エコーの神話だ。歌のうまい木霊エーコーが、神の怒りをかって身体(歌)を八つ裂かれ、その節(メレー)が地上に残った。それら節々が集まって、メレディー(melody)になるのではないかと考えている。このメレー(節)を拾い集めることは、ぼくにとってミレーの落穂拾いに近い。だからブログのタイトルも「Ochiho」を冠している。

 

*4:五色の旗が思いつかれ、パシュパティナートが思いだされ、それは店にいるインド人の影響があるかもしれないと思うと、今回の「ぬ①:抜け殻」には不思議な縁を感じる。このようにして言葉は降ってくる。

 

     2017年7月30日(日)