は①:墓場

 昨夜、住宅地のなかにひっそり佇む、或る墓場の前を通った。規模は小さいが、卒塔婆などもある、いわゆる旧式の、本寸法の墓場といった感じで、時刻はずいぶんと深かったから人の通る気配もなく、近くにそびえる高層マンションの窓明かりもずいぶん数を減らしていた。以前にはここにある空地でしばらくの時間を過ごしたこともある、馴染みの場所だ(*1)。

 昨夜は素通り(*2)しただけだったが、そこを通ってからふと見上げた高層マンション群が、すぐ後ろに過ぎ越した墓標たちとなんら変わらないように思えた。現に、あの直立する建築たちの内側で、人は眠っているのだ。そうしてローンや家賃などのために、そう容易くは引っ越すことも叶わない。するとそれらはますます墓標然と佇む。東京全体が大規模の墓地のように映りはじめてくる。

 そのように映るのは、多くの建築が直立不動しているためだ。人の住む家であっても、前庭や表へ緑を置いているような背の低い、昔ながらの家屋は風に揺れる。公私の境界線が緑によって揺らぎ、曖昧となるために、直立不動からは少しく離れる。それでも墓めいて映るのは、それら緑が苔の生した墓標に似ているからかもしれない。

 苔や周囲の樹木を見ると、かえって墓の方が居心地よいのではないかと思えてくる。安らかな寝息を立てているのは死者の方なのだ。

 ずいぶん前に「無縁墓」という存在を知った。墓参りする者もいなくなり、手つかずになった墓を然う言う。それらは或る期間を経ると、管理者が処分するらしい。埋められた遺骨は取りだされ、他の無縁仏と一緒になって供養されるという。少子高齢化核家族化の影響で、無縁墓は数を増している。「墓の墓場」というようなワードも聞いた。

 人間が人間の都合で拵えた墓ではある。だから人間の都合でどう処置しようと構わない。いまでも、死んだら墓に入りたいという人は多くいるわけだし、都市の地価高騰と同様に、墓地も予約や内覧予定で一杯なのだ。けれども、なんだか妙だ。死んでなお、縁を求めるのだろうか。ようやく解放されるのだから、はじめから無縁仏として、というよりも散骨やなどで大気に交じり入った方が良い気がしてならないのは、まぁぼくの勝手な都合だ。死者よりも、生きている者が名残惜しくって墓を建てるということも大いにあるだろう。何にせよ、人の死生観というのは大変に難解で厄介だ。

 高層マンションを眺め上げながら、しかしこの集合住宅というものも或る種の無縁供養塔ではないだろうかと思う。近隣住民との交流もすっかり減り、孤独な生活を送っている窓の数々が、既に無縁の何かしらかを漂わせている。

 人は無縁を求めながら、けれどもいざそうなったら寂しさを抱くのが大半だろう(*3)。彼らの引きこもる墓標が夜の街に林立していて、孤独を酒で洗い流している。妙な世界に生まれたものだ。

 そんなようなことをふと思って、ぼくも自分の墓のなかへ帰っていった。地縛霊のぼくだ。

 

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*1:吉原で「馴染み」の客となるのには三度通わなくてはならなかったらしい。その数えでいくとぼくは「裏」だ。きっと、もう一度訪れば、遊霊の方も打ち解けてくれるだろう。ぼくはぼくの名を呼ばれ、酒を呑み交わす。そのための酒を持って行こう。墓場で一杯。

 

*2:素通りということは、ぼくはそこを冷やかしただけなのかもしれない。裏ですら、初会ですらもない。

 

*2:探偵ナイトスクープで、坊さんになりたいという幼い男子が、親元を離れて寺で修行する様子を追ったものが放送された。なんとか頑張る男の子だったが、最後には泣き出して母親に抱かれるのだ。人の様子をよく映しているように思える。

 

      2017年7月31日(月)