ひ①:暇つぶし

「人生は死ぬまでの暇つぶしだ」と言えるようになれば、きっとずいぶんと楽な心持で毎日を過ごしていけるのだろうけれど、そんなことを言うのは、本気で気が違えたように悟った人間か、そう思いたくって自分に言い聞かせているような人間か、そのふたつのうちどちらかだろうと思う。

 悟ってしまえば、社会とは、つまりは色さまざまに困難がぶつかってくる現実とは、すっかりおさらばしたようなもので、義務だとか権利だとかもずっと遠いところに臨む、夢みたいな時間を過ごせるのだろう。もちろんそこでは、食えないだとか、日が熱いだとかいう身体的な苦労はあるにせよ、観念的な束縛からは解き放たれることだろうと思う。

 暇つぶしだと自らに言い聞かせている人間の笑った顔は、去年は赤で、今年は青色で、来年はマリンブルー、みたいなどこから湧いて出たのか知れないトレンドをうそぶいて着こなすのに似ている。そんな連中ならば、きっと二三日もすれば、つまらない映画やドキュメンタリーに触発されて、いやに熱っぽく生きていくだろう。

「いや、君ね、それを含めての暇つぶしというものなのだよ」

 などと有難い忠告をぼくに与えてくれるのだけは勘弁してほしい。その暇を潰すのに、いったいどれほどの、他の、潰してはならないものも潰し、消し去ってしまっていることだろう。

 それだからと言って、「人生は」に続く言葉がぼくに見つかっているわけではない。見つかりっこないだろうという思いが片面にあるから、右のような愚痴をこぼす結果になっているのだろうとは思うけれど、それにしても、世の中には断言が多くって困惑する毎日だ。

 きっとみんなのするような断言は、真理という意味より以上に、確信という針路を取るための舵の役割が強い。とりわけ情報化社会などと言われて長らくが経つ現代では、どこを向いても本当らしい情報が大看板を立てていて、眩暈のするような毎日だ。あちらを信じればこちらに頭を傾いで、という具合に、ぼくらの頭の磁石はすっかり麻痺してしまっている。

 そんな風にして路頭に迷いこんでしまっては、確に信じられるものを見つけたくなるだろうし、そう思い立てば、案外に容易くそれは目前に現れもするから余計に厄介なのだ。その針路は、実際のところどこを向いていたって構わなくて、ただ、他と比べてベクトルのパワーが強ければいいのだ。その矢印を掴んで、

「これだ、これなんだよ!」

と、他を切り捨てて、それを選び取るのだ。みんなが欲しいのは、その強い矢印だけなのだろう。

 別に、それを悪いこととして払いのけはしない。それでもってみんなが幸せを手にすることが出来るのならば、それに越したことはないと思う。ただ、選択する片面には常に切り捨てられたものがあるということに、いつも目を向けていてもらいたい。

「それでは君、いつまでたっても前へ歩めないのではないかな」

 もちろんそうだ。そんな具合にああだこうだと頭を抱えていては、ちっとも前進しないから、だから人は舵を取るのだし、それでもって幸せが獲得できるというのは、いま述べたばかりだ。なにがなんでも中庸というものが絶対視されるべきではないし、そのことが幸せを足止めすることにもなるのだから。けれども。

 断言に、言葉の本質が垣間見える。或るものを他のものと区別し、切り分けることで、未来は拓かれていく。そうして尚且つ、切り分けきれないことをも含めて、言葉は言葉なのだろう。だから、ぼくは相変わらず観念的に世界を眺めているから、こんな様にこじらせてしまっているのだろうし、言ってしまえば、世界をそのように切り分け、酔っているというのもあるだろうと思う。

 つまりはぼくも、断言を、常日頃から求めているのだろう。また、この推量のかたちをとった断定に、すっかり寄りかかってしまっているのだ。

 さて、このぼくはどこから溢れてきているのだろうか(*1)。

 

―――

 

*1:或る日、人気のない路地裏でぼくは石ころを拾った。そのときに憶えた感情が同情めいたものだったから、ぼくは少し驚かされた。別段に特徴のあるわけでもない、ただの石ころだった。

 ぼくはそれをしばらく手の平で転がし、宙へ投げては掴みなおし、ついにはポッケへ仕舞いこんだ。それでズボンがすこし垂れ下がるくらいの、程のいい重量感だった。ポッケのなかで石ころを触りながら、ぼくは部屋へ帰った。

 

      2017年8月6日(日)