ら①:ライ麦畑でつかまえて

 何度も読み返した本だ。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』ではない。やはり『ライ麦畑でつかまえて』が良い。

 はじめて読んだのは中三のときだったか。初読の感想はあまり覚えていない。けれども、それから高校で二度も読んだのだから、何かしらのつかえがあったのだろう。

 高校のときに読んだのは、読書感想文を書くためだった。そのときに、

「これは僕にとって白米だ。旬によって変わるおかずのすべてに白米が合うように、さまざまな時に応じて僕はこの作品を楽しめるに違いない(*1)」

というようなことを書いた。それを確かめるように、大学で一度、卒業してからも一度よんだ。高校生のぼくは間違っていなかった。

 しかしこれの何が白米足らしめているのか未だにわからない。そのこと自体が、と言ってしまえばそれで終いだ。

 ツヤのある真白なものが食膳の中心に置かれている。ロラン・バルトは天ぷらを「空白の集合体」というように評していたが、ぼくにとって白米と『ライ麦でつかまえて』はそれに近く、ぽっかりと空いた白い穴のように思える。もしくは、それを喰らって消化する胃腸が、排泄する肛門が、それら連なった生きることの空しさの方こそが、ぼくには意識されているのかもしれない。なんだか「気が滅入る」ような類の。

 ホールデンライ麦畑のある崖の淵に立つように、ぼくはいつしか、坂の下にいる自分を想像するようになっていた。誰かが途方もない上り坂の途中で足を止め、ふと後ろを見下ろすと、汚い形をしたぼくが笑って手を振っている。これは『ライ麦』と吉田拓郎(*2)の『イメージの詩』(*3)の影響だ。ぼくはそのようにして生きるのだろうと、十年くらい前になんとなく思った。

 高校の時には『赤ずきんちゃん気をつけて』も読んだ。これはそのときの一度きりだ。そのなかで唯一覚えている文章がある。

「逃げて逃げて逃げまくりさえすれば」

 というもので、この続きがどうしても思いだせない(*4)。逃げまくりさえすればどうだと言ったのだろう。主人公の言葉だったかも覚えていない。読み返せば早い話だが、知るのを少し恐れているぼくらしい。

 そこから逃げようとしながら、なにから逃げているかを知らず、やがてそれを確かめようと思い立って自ら穴のうちに入っていく。人とはそういうものらしい。

 

―――

 

*1:談志がパン食文化のことを小馬鹿にしていたのを思いだす。パン食と言うからには何斤も食べなくてはいけない、ところが連中を見てみると、おかずを食べてちょこっとパンをかじるくらいだ、というようなことを。

 

*2:ぼくが初めて行ったコンサートは広島で行われた吉田拓郎のものだった。小学校低学年だったと思う。当時、長兄が拓郎にはまっていたように記憶している。父か母の知り合いがチケットを手に入れて、それを譲ってもらうかして、母と一緒に行ったのだ。コンサートのことは、ぼくが途中で眠ってしまったのか、ほとんど記憶にない。

 

*3:長い長い坂を登って後ろを見てごらん、誰もいないだろう

   長い長い坂を下りて後ろを見てごらん、皆が手を振るさ

     『イメージの詩/吉田拓郎』より

 

*4:四年前の2013年1月に、ぼくは大阪から九州にむけて歩きはじめた。そのとき「歩く」というよりも「逃げる」といった方が近いように感じられて、ふと「逃げまくりさえすれば」という文章の断片を思いだした。逃避行は結局、金が尽きてしまって断念してしまった。そのときのことも、いずれ書きたいとは思う。

 

    2017年8月13日(日)