れ①:檸檬

 梶井の檸檬は素晴らしい。それへのオマージュである、長尾謙一郎が描いた『PUNK』内での檸檬型の爆弾はつまらない。長尾は好きだけれど、あれはいただけない。

 檸檬は時折りぼくの頭のなかにぽこんと生まれる。それはわけのわからない涙と同様に、突然ぼくに襲い掛かるから対処の仕方をまだ知らない。

 たとえば昨年の夏、四万温泉へ二泊三日の一人慰安旅行をした帰りのバスのなかで、たくさんの檸檬が成った。バスが首都高速を滑りながら高層ビル群のなかに入っていくときだった。きっとそれまで田舎の空気を吸って、人のいないのんびりを楽しめていた反動から、都心に建ち並んだ虚栄やなどがぼくの嫌気を誘ったのだと思う。ぼくはそのとき檸檬ではなくて爆弾が欲しかった。灰緑色の人の血と暗渠を覆い隠す、退屈なファサードアスファルトをぶっ壊してしまって、溢れて飛び出して腐臭を漂わす下水やなどから逃げ惑う街を見たかった。そのことを思いながら手が震え、脈拍があがり、導火線には火がついていた。火の伝っていく線を両手で強く握り、歯を食いしばる。手のひらから汗が吹き出し、わずかな隙間から火がこぼれて逃げていって、火薬のところまであと少し。貧乏ゆすりがはじまって、呼吸を落ちつけようとするけれど、まぶたはかっぴらき、ビル群とその足元を行き交う人々を睨みつけ、そうする自分を叱りつけつづけた。

 バスが東京駅にほど近い停留所について降車する。肩で息をするぼくは電車に急ぎ、山手線に乗って、そこに居る全員を嫌った。激しい呼吸のために意識が朦朧としてきて、部屋へふらりふらりと帰った。何事もなく帰ることができて、死ぬように眠った。

 ひょっとするとこれを檸檬とは言わないかもしれない。けれど、ぼくのなかで檸檬は不発弾なのだ。それゆえに一層の恐怖とエロスが棚引いていく。

 

   2017年8月14日(月)