を①:を

「を」をキーボードでタイプするには「w」「o」と打つ。母音を「i」にすれば「ゐ」となり、「e」ならば「ゑ」となる。

 小学校で習った平仮名は「わ・を・ん」で終わる。「ゐ」や「ゑ」が使われなくなった歴史は知らない。読みの問題などがあるのだろう。昔と今とではものの呼び方がずいぶんと違うことは想像できる。つまりは言葉の持つ音楽の要素が変わってしまって、なおかつ当時の音源は残されていないのだ。

 日本語ラップは(ラップに限らないけれども)、音への言葉の乗せ方が変わってきている。佐野元春いとうせいこう、スチャダラ等、いくつかある日本語ラップ黎明期と比べると随分と変化している。日本語をどれだけ英語っぽく用いて向こうに近づけようかという試行錯誤の歴史なのだけれども、それは「r」の発音、つまりは日本語にはない巻き舌を日本語自体に使いはじめたことが分かりやすい例だと思う。これを使うだけで日本語は少しく崩れて英語っぽさを醸すことができる。あるいは言葉の区切りを単語の意味から切り離したりすることによっても、リズムを解き放つことに成功した。

 そんなようにして音楽としては格好よく、聞き心地のいいものになったけれども、一聴しただけでは詩を理解することが困難になってしまった(*1)。

「そんなのは歌詞カードを読めば済むでしょう」

と言われれば、返す言葉を懸命に探さなくてはならない。そうして今が実際にそうなのだけれど、違和感が残るのは誰しもではないだろうか。もちろん、意味が切り離されてしまっているから音楽として評価できないなんていうことはないし、むしろそのことによって言葉や音楽の面白味に揺蕩うことができるのも間違いない。

 そこで登場してもらうのが「ゐ」や「ゑ」なのだ。

 いま、ちらりとWikipediaで「ゐ」を調べてみると、

奈良時代には、ヰは/wi/と発音され、イは/i/と発音されて区別されていた。・・・・・漢字音では、合拗音の「クヰ」「グヰ」(当時は小書きはされていない)という字音があり、それぞれ[kwi][gwi]と発音され、「キ」「ギ」とは区別されていた。」(Wikipedia「ゐ」より抜粋)

 まだちっともわからないが、日本語なんだけれども日本語っぽくない発音によって妙に聞き心地のいい歌をつくることはなんだか出来そうな気がしてくる。既に挑戦している人もいるのだろうなア(*2)。

 いやそうだとしても、日本と外国という空間の隔たりではなくて、今度は今と昔という時間の隔たりによって意味は遊離してしまうか。

 平仮名表をぼんやり見ながら、ワ行の違和感満載な空白にこのようなことを考えた。すると次の「ん」も奇妙で仕方がない。

 

―――

 

*1:もしかすると、そのような「英語発音的な日本語ソング」のネイティブならば容易く理解するのだろうか。すると、ぼくの耳が既に古い時代のものということになる。アップデートしなくてはなア。

 

*2:水曜日のカンパネラには、英語っぽさよりも万葉っぽさを感じる。するとコムアイが昔の芸能に関心があることや、『ユタ』の琉球っぽい歌詞やなんかと通じてしっくりくるけれども、果たしてどうなんだろうか。(*3)

 

*3:ということを勤め先の店長に話してみると「それは既知の事実だと思っていたんだが」と一蹴された(*4)。この徒労。いや、自らでそこへ至れたことを褒めてやろう。これでもって今夜は蕎麦に酒でねぎらうことに決定した。

 

*4:しかしさらに抗おうとするならば、彼女らの言葉には日本語だとか、英語だとか、旧日本語だとかも越えていく、呪術的な言葉を感じさえするのは、ぼくが彼女らにどっぷり浸かっている証左だろうか。いや、言葉と音楽とは同じに根差していたのだ。渾然一体だからこそ、道理には引っ込んでもらわなくてはならない。

 

    2017年8月20日(日)