ぎ①:擬人

 点の三つある図像が人や獣の顔のように錯視されるのをシミュラクラ現象と呼ぶ。両眼と口、もしくは鼻の逆三角形をつくる三点というのが肝らしいけれども、漫画的デフォルメやキュビスムなどを通過した現代のぼくたちにとっては、おそらく三点も必要とならないし、両目の二点が平行に並んでいる必要もないだろう。そうすると至るところに人らしき、獣らしき、顔らしきものが散見される。
 たとえば、いまぼくは安いカフェの二階の喫煙席に座ってこれを書いていて、天井に、スクウェアな空調と排気口と、小さな丸い窪みにはめ込まれた十数個の電球を眺められる。その丸い窪みの電球のうち、空調のそばにあるたったひとつだけが光を灯していなくて、代わりにそれだけが短い紐(蛍光灯のスイッチ紐に似ているが、スイッチのためにしては手の届かないところにあるから用途は不明)をつけている。その短い紐が隣の空調の送風によって忙しなく揺れている。天井でそれだけが動いているためにいやでも注目してしまう。するとその揺れるのは涙のように映る。窪みを目と取るのが先なのかは分からないけれども、天井に涙を流す目がたったひとつ浮きあがる。そのように捉えられると、大きさのまったく異なるスクウェアな空調さえも彼の片目のようにして映り、なるほどそのような顔をした存在なのだろうと納得せざるをえなくなる。ひとり勝手に。他にも、正面には非常用扉と緑に輝く誘導灯があって、たったそれだけでも顔となる。
 いまこうして顔を探していると、やはり第一に発見されるのは目であって(大抵が右目で、それはぼくが右利きだから)、そこからもう一方の目や口や鼻やイヤリングや輪郭やなどを見つけ出していっている。シミュラクラ現象は、本能的に先ず目を見ることによってそこから情報を獲得していた脳が、類似の構図と対峙した際に錯覚的に働いて顔と捉える、というふうに説明される。けれども、そういった習性より以上に「見られている」という受動的なものをそこに感じとる。
 ひょっとすると被害妄想に連なるような捉え方かもしれないが(*1)、顔らしきものに「見られている」ことを見出し、あるいはそこに前置詞「ずっと」を付けたし、その存在が至る所に居ること、ずっと居たことを思えば、八百万の神、山川草木悉皆成仏といったアニミズムの方へ思いは至る。ポジティブに「見守られている」と捉えられれば良いのだが、そうはいかないことも多々ある(再*1)。
 人というのは、他者や外部といった客体に自身を重ね合わせることによってさまざまに思いを巡らす(*2)。ほとんど神秘と呼んでいいほどに不可解な他者や世界をなんとか理解しようとする機制がそこにはあって、それが人格化の根本にある。擬人化という比喩もそれと根を同じくする。
 シミュラクラ現象は、三点ある図像を人や獣の顔と錯視することだけれども、大袈裟に言ってしまえば、自分が世界を捉えるということ全体をすらシミュラクラ現象的錯視と呼んでしまっていいように思う。自分の体験のなかで培ってきた情報を基に、対峙する不可解な世界から任意の三点を抽出・縫合することで可視化、理解可能なものへ置換しているのだろうから。
 すると結像させるために必要な点の数が減っているのはどういうことだろうか。恣意的に世界を捉えすぎているということだろうか。なんだか自分の思考が気に食わなくなってきた。自分の手に負えないことを考えるといやになる。

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*1:丑三つ時、悪夢に揺り起こされた暗い部屋のなかでぼくは度々バッドな精神のままで恐怖が呼び起こされる。壁の染みや衣類のボタンやハンガーの照り返し、正体はそういった類だが、ぼくは容易く魔物に取り囲まれる。

*2:昼間には見守られていると思っていた存在が、夜にもなると今にも自分を喰い殺す存在へと変容してしまうのは、いつだって自分自身の精神状態のためだ。他人にきつく当たる原因が、他人の言動より以上に自分の精神衛生に問題があるのと同様だ。その意味で世界は違いなく自分のなかで変容している。

    2017年8月27日(日)