げ①:現在

「世も末だよね」
 喫茶店の隣に座る女たちが話していた。彼女たちがいったい何を見聞きして、そのような言葉を話したのかは終ぞ知れなかった。彼女たちは、ぼくが席に着いてテーブルの上のトレーや灰皿の位置を正しているあいだに、席を立って店を出て行ってしまった。ひとつ静かになった店内で「世も末だよね」という言葉がずっと気になったままでいた。
 それが言われはじめて早や何百年が経つだろう。「近頃の若い者は」というのと同様に、幾代も繰り返されてきた言葉なのだろう。
 けれども近頃のミサイルの雨や頻発する爆破テロのニュースなどをみると、たしかにそろそろ世も末に差し掛かった頃だろうかと不安な気分にもなってしまう。
 ミサイルの目標と到達点とのあいだに誤差がまだずいぶんとあるようだから、今すぐにでも末ということではないようだ。その余裕があるために、ネット上のホットワードはすぐにエンターテイメントの話題に置き換わっていく。店を出て行った彼女たちもきっと他の話題のなかで「世も末」という言葉を使っていたのだろうと思う。みんな、それほどには切羽詰まっていないのだ。
 ここ日本でも何が起こるかわからない。ミサイルはまだやってこないにしても、今だって九州には大型の台風が上陸している頃で、今朝早くも埼玉を震源とした地震が起こったばかりだ。昨夜には秋田かどこかに豪雨が襲ったらしい。ネットニュースには新たな殺人事件が更新されつづけている。異常なことだろうか。それとも、こういったことも昔から繰り返されてきたことだろうか。おそらく後者だろうとは思う。今が特別なわけではない。戦中戦後の方がもっとシビアな世界だったろうし、自然災害の頻度は知らないが、犯罪率はその頃よりかはずっと低下しているはずだ。
 けれども、妙に不安なのはなぜだろう。加熱する報道のために不安を掻き立てられているというのもあるだろうし、テロという新たな時代に居るということがようやく内面化されてきているのかもしれない。それは単に膨大になる情報と相対しているためか。多くの人は、きっとそのような危険や悲しい事件からは目を反らし、出来うるかぎり半径の小さな世界での幸福を享受したいに違いない。けれども、実際に人は死んでいるし、避難や逃亡が毎日どこかで行われている。
 終末思想がひさしぶりに流行した20世紀末、多くの表現が黒々とした陰鬱なものを纏っていたように思う。爛熟の時代だったのかもしれない。また、不安を無理から掻き消そうとバブルの華やかさがあったこともよく対置される。自分たちが何を思おうとも、複雑膨大なコンテクストのなかで生きざるを得ない社会において、常に不安と快楽は付きまとい、だから人は生きる。いつの時代であれ、私たちは死ぬのだ。そのことをまざまざと突きつけられている時代だ。環境や災害や事件は昔から変わりはしない。切羽詰まるかどうかだ。
 喫茶店の窓の向こう、ミサイルの雨のなかで傘を差して歩く人々が映る。

    2017年9月17日(日)