ご①:ゴッホ

 ゴッホのことをよく知っているわけではない。ゴッホの壮絶な人生や、そこから生まれた作品の幾つかを、本やテレビなどの又聞きで、断片的に覚えているくらいだった。
 数か月前の或る晩の丑三つ時に、ぼくはゴッホの目と出逢ったような気がした。
 そのときぼくは、部屋を真暗にした布団の上で、うまく眠られない時間を過ごしていた。何度も寝返りをうち、枕の位置を微調整し、トイレへ立ち、煙草を吸い、深呼吸をして、ストレッチをして、といろいろ試しはするが一向に眠られない。それならばいっそのこと起きておこうと、布団へ横になったまま天井や部屋の様子を見るともなく見ていた。以前から気になって、そうして好きでいた、暗闇のうちで発火する、白い霧雨のような視細胞の働きをそこへ見出すと、その様子をじっと見つめていた。見つめているうち、畳のうえに置いているはずの座椅子や衣服やテーブルなどは、暗闇と視細胞のノイズに紛れて輪郭を曖昧にしていき、やがて姿を隠す。まばたきをするとモノたちは再び幽かな輪郭を取り戻し、しかしまた霧消していく。それを繰り返していくうちに、ぼくは真っ直ぐに立つテーブルの脚が、ゆっくりぐにゃぐにゃと動くのを見つけた。その脚の動きはぼくがはじめて目撃するもので、輪郭が曖昧になるような類ではなく、たしかに、曲がりくねっていた。目に涙でも浮かんでいるためだろうかと手で拭ってみたが水気はない。奇妙なことが起こったぞと、ぼくは半ば興奮しはじめ、眠るという当初の目的すら忘れて、テーブルの曲がり動く脚を観察した。
 一本の脚が曲がり動くのは、どうやらぼくが見つめているためだった。つまり、目の焦点の合ったところが蠢く。それを確かめるために、隣にあるはずの座椅子のレバーを見つめると、それもやはり奇妙な動きをはじめる。間違いない。そう確信して今一度テーブルの脚に焦点を戻す。動く。そうして動きは回転であることがわかった。目と脚とのあいだに渦が巻いているかのように、一本の線がゆっくりと回転して映っていた。その箇所だけが、関節のようにわずかに膨らみ、じんわりと廻っているのだった。
 そのときに、それに似たものを以前に見たことがあるように思いかえし、すぐさまゴッホの作品が頭のなかにバンと広がった。
「そうか、ゴッホもこの渦巻きを観ていたのだ」
 そのことを直観した。急ぎスマホゴッホを検索した。頭のなかにイメージされた絵画のタイトルは知らなかったがすぐにそれは見つかり、はじめて『星月夜』というタイトルを知った。作品解説には、ゴッホの当時の精神状態が渦にあらわれている、などということが書かれていた。
「そんなはずはない。ゴッホは星月夜の暗がりのうちに、この渦巻きをたしかにその目で見つめていたのだ。そうしてそれを描いたのだ。解説なんて糞だ。結局だれもゴッホを理解していないのではないか」
と、ぼくは妙な憤りを覚えた。スマホを置いて再び渦巻きを見出し、じっとそれを見つめつづけていると、渦は次第に大きくなり、視界の半ほどだったろうか、空間が大きく渦巻いていくのを見て、ぼくは思わず目を覆った。
 眼と脳とがその渦巻きを錯視させていたことは言うまでもない。しかし、心拍数のあがったぼくはそのとき、身体のなかに居るだろう虫のことを考えていた。
 その夜に目撃した渦や世界の蠢きは、そのあと度々ぼくを襲う。川村記念美術館マーク・ロスコサイ・トゥオンブリ国立新美術館ジャコメッティ、旧芝離宮で座禅を組んで半眼に見つめた地面、大渡キャンプ場の夜の森、それらは違いなく蠢いた。
 このことを他人に話すとその人は決まって閉口する。なぜだろう。それは違いなくぼくたちの話であるのに。ぼくたちが座標を曖昧にするのとまったく同様に世界は蠢いているのに。

    2017年9月17日(日)