ヴォルス展とわたしのアタマとメンタマ

 7月2日の日曜日(*1)にヴォルス展(*2)へ行ってきた(*3)。素晴らしかった(*4)。

 以上。

 ゆえに以下同文。



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*1:勤務しているカレー屋(*A)は毎週日曜日が定休日で、遠出をするには定休日の日曜日か、月に一度だけ貰える平日休みを使うかしかできない。

*2:この展覧会は、柳家小春さん(*B)がツイッターで言及していたために知ったものだ。試しにと、ヴォルスの作品を画像検索すると「これは生で見なくてはならない(*C)」と、前日の土曜日に思い立ち、急きょ(*D)鑑賞しに行った。ちなみに七月二日の日曜日が展覧会期日の最終日だった。

*3:展覧会の会場は千葉県佐倉のDIC川村記念美術館だった。午前に起きて、山手線で日暮里まで行き、京成本線特急列車に乗り換えて佐倉まで五十分。駅前の小さなロータリーにあるシロタカメラという店の前から美術館までの無料送迎バスが定期的に出ており、私は十一時五十分のそれに乗った。JR佐倉駅でもお客さんをピックアップすると、バスは緑のうちへ入っていき、出発から三十分ほどで美術館に到着する。外へ出るとムッとする暑さだった。すぐに汗が染み出してきて、館内へ入るとそれが冷えて少し寒かった。いまだに体温管理が苦手だなあと考えたのを覚えている。

*4:このことを補足説明するためにコレを書いている。

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*A:オープン前から手伝っている店で、この八月でめでたく五周年を迎える。私はそのあいだに二度ほど店を辞めているが、貯蓄が尽きる度に出戻りして働かせてもらっている。スタッフと流れる音楽に恵まれ、私にとって重要な場所になっている。しかし、それが私の甘ったれた心を惹きつけてしまうために困りもしている。そろそろ三度目の辞めどき(*甲)だ。

*B:彼女は江戸小唄を演る。少し前から趣味になっているYouTubeでの落語鑑賞中、八代目桂文楽が寄席についての今昔話を語るなかで、立花家橘乃助という天才的な三味線の名手が居たというのを聞き、それを追っていくうちに、小春さんがテニスコーツ《*乙(*い)》とセッション?している動画を見つけ、私はそれに惚れてしまった。ちなみにそのYouTubeでのライブ音源は断片的なものになっているが、嬉しいことに円盤化(*丙)されており、これが名盤なのだ。それと、彼女が『黄昏のビギン』をカバーしている映像もあがっているが、これも大好きだ。もちろん、ちあきなおみのも素晴らしいが。

*C:芸術鑑賞というものから私はしばらく遠ざかっていた。たまに落語を観るために寄席に行ったり、気になるポスターを見て美術館へ行ったりしていたが、最近はその熱が強くなっている。それは最近に出来た友達、T君(*丁)のおかげだ。この四日前にもT君と高円寺・座へ寺山修二の『レミング』(*戊)を観劇に行ってきたばかりだ。先月初頭に彼に連れられて『ビンローの封印』を体感してから、やはり生ってのは良いもんだと思い改めたのだ。

*D:突拍子もなく「不図」やってくるものを愛したい。それは三十歳を手前にして凝り固まりはじめた頭や何やらの輪郭をほぐしたいという願望から来るものなのだろうと思う。そうして、そのふとやってくるものに飛びついたときには、必ず後になって香しい残滓を私のうちに見つけられる経験があるためだ。いや、それは少なからず自分の行動を正当化したいという無意識があるのだろうとは思う(*己)。

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*甲:それでは辞めて何をしようかということなのだが、これに関しては何もない。何もないといえばウソか。ものを書く時間が欲しい。それだけだ。ただ、その材料を如何にして集めようかというところで、いまの環境に飽きが来ているというのは理由のひとつとしてある。何をいう、どこへ住んでも変わりはしないよという意見もあろうが。知り合いの伝でニューヨークでの働き口があるから海外生活という選択がある。しかし、とりたててニューヨークでなくてはならない動機もなく、せっかく外へ行くのならモロッコ(*ろ)あたりが良いなあと思っている。

*乙:彼女と彼を知ったのは去年の夏だ。勤務先の近所に増上寺(*は)があるのだが、そこで『寺フェス』なるものが開催されるのを知り、無料だというので無理を言って休ませてもらい、覗きにいってみた。増上寺の大きな門をくぐり、まっすぐに進んでいくと、大きな階段がある。その上の青空広場?境内?なんと言うのか知らないが、とにかくその広場で音楽家たちが順番に演奏していくのだ。日が暮れだすと向こうに東京タワーが灯りをつけ、月があやしげに輝いていたのを思いだす。私が行ったときに演奏されていた電子音楽と相まって妙な高揚と幸福とに私は包まれた。いや、実はその日にテニスコーツが演奏したのではない。その日の体験が素晴らしくって、翌日も開催されるらしいから元気だったらまた行こうと、翌日のタイムテーブルを確認すると、そこにテニスコーツの名前があったのだ。どんな人たちなのだろうとYouTubeで聴いてみるとそれが素晴らしく良かったのだ。しかし、結局ダメな私は翌日に増上寺へは行かれなかった。小春さんとあのテニスコーツが、という運命を感じてCDを買ったのである。

*丙:ライブ会場となった店も「円盤」という名前。

*丁:大学のゼミで一緒だったM君の紹介で、T君とは今年の二月に知りあった。T君は頭が良くって理解が早い。支離滅裂な私の話(*に)に耳を傾けてくれ、これはこうでそれはああという具合に、理路整然と語りなおしてくれるから私のした話に私自身が驚くことが多々ある。正直、私にとってこのブログは彼との往復書簡のつもりで書いている。

*戊:この作品は思うことが沢山あって(*ほ)困る。なにから書けばいいのか大変に厄介だ。それだから私はこの作品を理解していないのだろうことも判っているのがさらに倍でドンだ。そのひとつの要因として、会場へ入る際、入り口に「今日は撮影カメラが入ります」というような内容の張り紙がされていたことだ。このカメラが果たして劇中に用いられたフィルムのないカメラのことなのか、それともメタ的に多用された夢や眼(*へ)というもののひとつなのか、私たち観客の眼というさらなるメタなのか、それすらをも含んだ・・・というような具合で、際限なく複層されていく或る境界(壁)のために、こんがらがってしまうのだ。

*己:この無意識というものを考えてしまうと厄介だ。どこを向こうにも裏でうじうじと私の小脇を突いて「嘘つけよ」(*と)と耳元で囁きやがる。このことを悪いように利用してしまえば、たとえば私が誰かを突然に殺めても神話を用いてそのことを淡々と説明してしまうだろう。つまりは、無意識というものには甘えたい放題なのだ。

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*い:この「乙」は、つまりは十干の二番目に来ることから「2」「B」「ろ」と同じ指示内容を持つわけだが、それが別の文脈では「洒落た」という意味を獲得するのが面白い。調べたわけではないが、きっと一番ではなく常に二番手であるような選択をすることが、つまりは傾くことが、洒落ッ気に繋がっているのだろうと思う。だとしたら私は乙に生きていたい。と、書くことが既に乙ではないのだろうなあと考える私はきっと丁よく見せる退屈な社会体なのだろうと思う。→「*己」に戻る。

*ろ:ここは『地球の歩き方』だけ買ってある。なぜ行きたいと思うのかはいろいろ考えられる。ベルベル人という存在、中心部にある広場でずっと鳴らされる音楽、白と青の幻惑的な街路、ヨーロッパを真向かいにする立地、ジュネが訪れたということ、そういった「微香」としか言えない誘惑的なものがここには感じられてしまうのだ。

*は:落語の噺のなかでも特に有名な『芝浜』では此処の鐘の音が、女房に時を違えて起こされたことを主人公が知るきっかけになる。2001年の年末、よみうりホールでの立川談志の『芝浜』を、私はYOUTUBEで観たのだが、それがヤバかった。後にこれは名演と呼ばれているらしいことを知ったが、それについては首を何十回も縦に振って賛同する。まあ、まだ落語歴の浅い私が賛同したところで、なのだが。しかし、この『芝浜』に関してはおそらく誰も指摘していないだろう観方ができる。注目していただきたいのは、主人公と女房との立ち位置、つまり上下だ。これが途中に何度も逆転してしまうのだ。なにをきっかけにしてか。それはその都度に表される夫の心情に依るところなのだが(※訂正を下記します)、一番大きいのは、浜で財布を拾って女房のもとへ帰ってからのことで、ここには大金を手に入れた夫の強気になった精神が表されているのではないかとも思った。しかし、ここまでなら考えいたる人も沢山いるだろう。しかし、さらに深読みすると作品の見え方ががらりと違ってくるのだ。上下が大きく変わるきっかけは、男が浜で煙草を吸ってからだと考える。つまり、理解いただける方にはわかるだろうが、あれは煙草ではなく、談笑の「改作した芝浜」に通ずるものを吸ったということだ。だから最後の「夢になるといけねえ」は、すでに夢だよという夢落ちの虚しさを含みうるのだ。そうしてさらに言うと、舞台下の、ディスプレイ越しの観客たちは、その高座自体に美しい夢の人情噺をみていたのだ。

*に:この記事がまさにそうなのだが、このようにして書かないと、私の散らかった頭のなかを描けないのだ。いや、充分に描けているとも思えないが。

*ほ:たとえば他に、部屋の天井の上から生活を覗く男。彼は傘を差しているのだが、それには穴が開いている。そうして、会場の天井には照明が点々と据えられていて、まるでこの会場にも穴が開いているかのように、そこから光が差しこんでいた。実際に、劇の冒頭で黒い巨大な男たち(眼の悪い私はずっと同じ場所を見ているとアリス症候群のようなものに罹って、ものの大小や遠近がボケてしまう。実際に劇中の黒い彼らは等身大以上に巨大に視えた)が家の模型を持つと、完璧に暗転してシーザーの轟音が会場を揺さぶる。あれは完全に観客が或る境界の内部にいることを言っているわけだ。するとあの穴のあいた覗き魔もまた覗かれていて・・・とわけが分からなくなる。

*へ:私は眼が悪い。しかしその近眼が世界の在り方を変える。ヴォルスは、人々が素通りする路上の些末なものにルーペをあてがい、そのミクロで繊細な世界を描こうとしていた。そのヴォルスとの出逢いもだが、常設展示されているマーク・ロスコの七点の壁画と、サイ・トゥオンブリの一枚の絵画も、私の視界のうちで見る見るうちに変容していった。前者の作品は色を変え、空間を覆った。後者はそこに描かれた曲線を波のように揺らがせた。実際にそう映ったのだからなんとも奇妙だ。監視役の学芸員にそのことを確認すると私は彼女に白い目で見られた。私も彼女を白い眼で見返した。あれは私の錯視などではない。いや、通常にみている世界が既に或る錯視なのだということを伝えるような感想を抱く作品だった。

*と:以上、比較的にシンプルに描けた私の頭のなかの相関図でした。

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ここまで読んで下さいましてありがとうございました(※了)


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※訂正:上下の入れ替わりの基準は、身分や立場関係に加えて、家屋での在り方によっても変わるということを初めて知りました。失礼しました。だから、このときに入れ替わる上下は基本に忠実なやり方であって、意図的に崩され変型されたものではありませんでした。だから素人が語るとダメなのです。恥じて反省いたします。なお、この訂正文は当記事投稿から七時間後に加筆いたしました。


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※了:際限がない。