め①:眼

 眼は窪地にできた水たまりだ。池田山公園の、ひょうたん池の前でそのことを考えた。蚊柱の立つ水辺から空を見上げると、池を囲う木々の梢がまつ毛のようにして陽光を遮る。緑色の水の下では亀と鯉がのそのそ泳いでおり、景色を反映した水面にアメンボのつくる波紋がいくつも生まれ、梢の裏へ光を反射させている。その光が揺れるのは梢に吹く風のためか、アメンボの揺るがす水面のためかを考えるともなく考える。ぼくの眼には白血球が舞って、蚊柱と混じり入る。するとあの蚊柱こそがぼくの眼の内側にあるだろうかと自ずから錯視させ、梢をまつ毛と混同させる。ぼくの眼がひょうたん池と置き換わる。水鳥がぼくの眼のそばへ降り立って、じっとどこかを見据えている。いまにも、くちばしでぼくの目玉を突きそうだ。

 夜に、もしも池田山公園へ入園できれば、この窪地に月の降りそそぐ様が見られるだろう。叢雲に薄らと覆われて、怪しげな輝きを放つ月のそばに、ゴッホの眼が向けられ世界は渦を巻く。しかしそれの叶わないことが残念だ。夏季は十八時に閉園となる。

 眼窩に溜まった水が眼球であるならば、そこではアメンボや亀や鯉が泳いでいるはずだ。そうしてそれは白血球や視細胞の発火であり、塵の混入なのだろう。水面に反映された景色を眺めて、向こう側に世界を感じている。

 すこし前に、旧芝離宮のベンチに座って、半眼で原っぱを眺めていると、地震でもないのに地面が揺れはじめた。川村記念美術館に常設展示されているサイ・トゥオンブリの作品のように、地面は波うつように揺れていた。あれは、この眼で泳ぐアメンボや亀や鯉のためなのか、それとも、世界がはじめから揺れているためなのか。

 太陽をしばらく眺めたあとでまぶたを閉じると、まぶたの裏に緑色の印象が輪っかを結ぶ。赤く視える太陽がまぶたの暗がりのなかでは補色である緑色を残すからだ。詳しいことはよくわからないが、そうなのだ。ひょうたん池の水が緑色なのは、周囲の植物を反映しているためでもあるが、水中の藻などの植物のためでもある。それらは陽光を受けて生育していく。おそらく、はじめは澄んだ水だったであろう池も、太陽を長いあいだ見つめていたために緑が増していくのだ。すこしずつ霞んでいくぼくの視界と似ているような気がした。いずれぼくの眼も藻に覆われていくだろう。それをぼくなりに緑内障と呼ぶことにした。

 

   2017年8月11日(金)