に①:似ている

 あるいは「似せる」と言うべきかもしれない。人が初めて向かい合う対象を自身のうちに取りこむ際に働く意識についてだ。

 たとえば、人に、ぼくの気に入る音楽を聴かせると十人に七人(*1)は、

「これはいったい何というジャンルだい」

 だとか、

「ははん、これは誰々に似ているね」

などと応える。目前に置かれた異物(*2)へ何かしらかの添加剤をつぎ足し、性質や形などを変化させてから咀嚼することで、対象を理解する助けとする(*3)。

 これは何も人に限った話ではなく、動物全体も、言ってしまえば植物にだって具わっている本能的な働きだろう。向かい合った対象を、学習や遺伝によって培われた先行例へ当てはめていくことで、それを摂取するなり逃げるなりして、生を延命させることに繋がるのだから。

「似ている」あるいは「似せる」というのは、生命にとって必須の能力なのだ。

 けれども、それが続けられていくうちに、人は自分で思う以上に頭が固くなっていってしまう。「○○に似ているからOK」というような判断基準で物事を取りこんでいけば、偏食的な栄養失調に陥ることは想像に容易い(*4)。

「それで一向に構わないよ。第一、君の思う栄養失調と、ぼくの思う栄養失調との間には随分と距離があるように思えるんだがね」

 たしかにそうだ。けれども、その「似せ」のフィルターを通さずに様々と向き合ったならば、時折り新たな発見と閃きに出逢える可能性があるのだ(*5)。まずは自分の掛けた眼鏡を疑ってみると、世界はクリアになるし、また違った「似せ」が見えてくる。世界はどんどんと広がり、奥まっていく。

 そうしてこの「似せ」は、眼前の対象と、頭のなかにある遠く隔たったものとをリンクさせる。この時空を超えたリンクのされ方こそが物語の本質であって、人間の本能ではないかと思う。星空に物語を編むことが太古から行われてきたのだから。

 

―――

 

*1:あくまでも割合の問題だ。実際には、音楽を聴かせるような友達はぼくに十人もいない。だからまあ、五人に三人くらいだ。

 

*2:電車や歩道などで、乳母車のなかの赤ん坊と目が合うと笑いかけてしまう。しかし、向こうはじっとこちらを見据えている。そんなときに、ぼくはもう笑いかける以外のことができずに硬直して、この子にどう向き合えばいいのかと、わけが分からなくなってしまう。ぼくにとっての最大の異物は赤ん坊だろうか。世の親たちは凄いものだ。

 

*3:このことを色眼鏡とも呼びもするが、どうにもその呼び名にはネガティブな意味合いが強く込められすぎている気がしてならない。人は誰しもその人のフィルターを通して世界と対峙しなくてはならないのだから。いや、「色眼鏡」の意味というのは、そのフィルターの上にさらに他の誰かの眼鏡を掛けることを言うのだろうか。すると、色眼鏡はネガティブに用いられて当然かもしれない。

 

*4:いや、人によっては、一般的に見て偏食であっても無事健康に長生きする方もいる。彼はおそらく、「栄養」や「健康」という一般的な見解とは別個の体系を自身で創りだしたからに違いないだろうと思う。一番の不健康は、自分の身体を外部の情報に振り回されて不安に陥れてしまうことだ。自分の身体のことは自分の身体が一番知っているはずなのだから。

 

*5:志ん生が語るなかに、江戸っ子の面白いエピソードがある。蕎麦はそばつゆをつけずに食うのが江戸っ子だ、という思いのもとで、生涯つゆなしで蕎麦を食べてきた男が、臨終間近に「何かしたいことはないか」と問われ、「蕎麦をつゆにつけて食べてみたい」と答えたらしい(これは「せ①:銭湯」の脚注ですこし触れた「痩せ我慢」に通ずる)。なんとよくできた噺だろうか。このように、死ぬまで一貫した頑固ならば最後に花も咲くだろう。けれども、なかなかそうは生きられまい。いずれにしても揺れてしまうのならば、その揺れることを極めた方が面白く生きられるだろう。

 

     2017年7月30日(日)