み①:みること

 みることに違和感を覚えたのは、友人のハイキックを顔面に喰らって卒倒し、眼鏡をなくしてからだ。意識が戻ったとき、鼻や口から溢れでる赤い血が友人宅の白い洗面台を次々に染めていっているのをみた。眼鏡がないことにすぐに気がついて、友人に眼鏡のことを尋ねると知らないと答えた。しばらくして血が止まってから、自分の倒れた辺りを探してみたが、眼鏡はどこにも見つからなかった。

 車に乗るわけではないから、裸眼の生活はそれほど不便ではない。標識の文字がうまく像を結ばず、道を間違えることはあるが、そのために街が見違えて妙な興奮を覚える、そのことが嬉しいくらいだ。

 晴れた公園のベンチに寝転びなどすると、白血球が空に舞うのを眺められる。押し入れの中に引っ込めば、視細胞の発火が白い小雨のように舞い落ちるのを見ていられる。暗がりで見据えた物体は渦を巻きはじめ、ぼくはゴッホと出逢える。夜景を見下ろす陸橋の上から人々の輪郭がぼやけて重なる。半眼で望んだ対象は静かに波をうち、サイ・トゥオンブリを思いだす。まっすぐな道に立って前方を見つめると、ぼくの眉間は、一点透視図の消失点に貫かれる。

 みている世界は意想外に脆弱なようだ。手で触れられる頑強なコンクリートでさえも、ひぐらしの鳴き声を聞かせれば容易く瓦解してしまうだろう。本来は揺らいでいる世界を頑強にさせているのは決まってぼくたちの方だ。

 みることを疑うと、自分自身に疑念が生じる。世界をみている存在と、その世界をみさせている別な存在を内側に感じる。それは脳かもしれないし、バグかもしれない。ぼくはその正体を暴くことが叶わないままで朝を迎え、戸口に立って、ドアノブをまわし、奇妙な蜃気楼を歩いていく。そこには道があり、壁があり、家並みが続き、ビルがそびえ、車が行き交い、人々が喋りまくっている。それらはたしかにそこに在って、なにかしらかの役割を果たしたり、さぼったりしている。仮に、そこに在るすべていちいちへ触れるなどすれば、万にひとつくらいは、ぼくの手はそれをすり抜け、幽霊を発見できるかもしれないと空想する。この世のすべてに触れてまわれば、幽霊と幽霊のような存在に関するレポートを独自に書けるかもしれないが、いったいどれだけの時間を要するだろう。それが叶わないから、人々は、それらはそこに確かに在ると、とりあえずの結論をして毎日を過ごし、幽霊を見過ごしている。

 幽霊などいない。いるとすれば、ぼくの目と脳との薄暗いトンネルの中でうろついている。あるいは皮膚と中枢とのあいだや、あるパルスの内側で生滅していっている。

 みるほどに、世界は遠のいていく。だから半眼で、みるともなくみる。ぼくの目玉を思考から切り離すようにして空へ浮かべる。すると世界とぼくとの境界は曖昧となって、ようやく、ぼくは世界と交じりあっていく。それは夢のように揺らぐから、記憶は不確か曖昧のままで目玉に焼きつく。ぼくはそれを部屋へ持ち帰って必死に思いだす。目玉にルーペをあてがい、光量を微調整して、散り散りになってしまった、しかし、たしかな世界の光景を素描していく。

 ぼくにとって「みる」とはこんなようなことだ。

 (*1)

 

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*1:人の獲得する情報のうち、視覚情報が約八割を占めるという話をよく聞く。このことから視覚の重要性がよくわかるし、それは言葉にも連なる。英語で言うところの「try to」を日本語にすると「~してみる」という言葉になる。「試してみる」「見てみる」「触ってみる」「やってみる」というように、やたらと「~みる」が用いられる。それくらいに視覚が重要なのだろう。

 ふと、目によって獲得する情報は約八割、というこの数値が、宇宙を構成する物質のうち、不可視の、質量だけを持つダークマターダークエネルギーの占める割合に近いように感じられた。未だ判然としない物質やエネルギーの割合と、人が視覚によって獲得する情報の割合との近さというものに、奇妙なロマンを思った。ぼくたちは多くのものを見ているようで見ていない。この目のために、世界の八割を喪失してしまっているのではないだろうか。

 

    2017年8月10日(木)