が①:がらくた

 酔って帰る夜道に時折りガラクタが落ちていて、酒でタガの外れた頭がそれを拾えと言う。そうして拾い集めたものが部屋に幾つかある。それらが散らかって転がっているのを眺めて、なぜこんなものをぼくは拾ってきたろうかと頭を抱える。頭を抱えるだけで別段に何をするわけではない。再び捨てに行くこともせず、かといって修理などして何かの用に供するということもなく、六畳間に放置されている。
 ネットでの拾いものも多い。頭のアンテナがふと感知した文章や画像などをスクリーンショットで保存して、それを見返すことはない。同様にブックマークや欲しいものリストが膨大になる。気になったものを身近に置いておくという意識でスクショを撮り、アクセスしやすいようにリストへ保存するその時点で、ぼくは何かしらかの安心を得ている。生活に余裕があるわけでないぼくに、それでも所有の欲求が働くため、そうしてそれを解消するため、幼いころのようにがらくたを拾い集めるようになったのだろうか。
 がらくたは抜け殻だ。人々に意味機能を消費され、吸いつくされたあとに残る外皮や骨だ。道端に捨てられているがらくたは形を持つからそのことを容易く知れる。ネットの情報は有益そうに眼を刺激するが無形である。フォルダや頭のなかに仕舞われ、堆積してがらくたとなる。
 するとぼくはすっかりがらくたに囲まれて生活をしている。畳だけでなく、この頭のなかにも多くのがらくたが堆積されたままだ。だからといって気落ちするわけではない。 
 がらくたという言葉は、対象を価値のないものと捉える人の言葉でしかなく、ゴミ屋敷に住まう人などにとっては安心や情を抱くことのできる立派な価値あるものなのだろう。百害あったとしても一利を見出すことができるのだ。産廃物の中から再利用できるものもあるから都市鉱山と言われる。貝塚の出土品から当時の暮らしぶりを研究することができる。地中深くに堆積した生物が天然資源となる。人々や時間に見過ごされるがらくたはそのようにして別の意味を醸成している。
 あらためて沢山が堆積したフォルダやリストを見ていくと、まさに地層が織り成されているところだった。上段には真新しいワードや画像があり、それに関連したものが下に連なっている。しかし関連は少しずつ薄まっていき、最下層へ着くころには懐かしい情報と出くわす。おそらくフォルダやリストに入れた当時とは違う目をもってぼくはそれと対峙している。その目を形成したのが上へ重なる情報なのであって、これを「知層」と呼べばいいじゃないかとひとり満足した。
 汚い六畳間も、散らかった頭の中も、やがてぼくに英気を養わせるために発酵を繰り返している最中だ。

    2017年8月25日(金)