ふ①:ふらり、不図

 ふとしたことを好きでいたい。

 自分なりの相関図や星座などを拵えているが、その隙間を縫うようにして、からかうようにして、時折り、図らずも訪れた思いに連れられてぼくは脇道へそれていく。

「不図」は、風をつかまえるため、空方へと伸びやかに枝葉を広げる樹木と似ている。

「不図」は、酒を肴にして友達と話に花を咲かせる夜に似ている。

 ふらりふらりと脱線していけば、妙な衝突事故に出逢って爆発するだろう。

 何処かへ出掛けようだとか、これを書こうだとか、

「不図」はぼくを別な行動へ導いてくれる。

「不図」は、取り留めのない空想事に拍車をかけもするが、総じて、心を晴れやかにさせてくれる。

「図らない」ことが良いのだろう。図ってばかりいる毎日だからこそ、固くなった頭に風が抜けていく心地よさを感じるのだ。

 おなじ「はかる」で「不測」という表現もある。これも同様、なにをするにも測ってばかりいるから、不測の事態がドラマティックに人生を動かしていく。謀ったり計ったりの毎日のなかに「不図」や「不測」の訪れる空地を残しておくことがいいのだろう。

 その「不図」が訪れる空地を「余白」とも呼ぶ。「間」と呼んでもいい。半眼で世界を眺めるようにして「余白」や「間」を望めば、そこには何もないのではなく、蠢くものを感じることができる。もしかすると、それをノイズと捉えて邪険に扱う人もいるかもしれない。そうしてノイズキャンセリング機能を駆使するなどして邪魔ものを取りはらい、自分の理想の世界を求めるかもしれない。けれども、そこで思いだされるのが映画『ヴィトゲンシュタイン』(*1)の最後に話されるセリフだ。

「摩擦を忘れていた」

 前後のセリフなどはすっかり忘れてしまったが、完璧な世界を求めていたヴィトゲンシュタインは摩擦のことを忘れていたために、その氷の上で足を滑らせ、倒れてしまう。摩擦は、世界のでこぼこだとか、欠点だとか、そういったことの表れだったはずだ。ノイズを取りはらう人たちと、すこし似ているように感じて、この映画のことを思いだした。ノイズを愛することが出来れば、そこに未分化な蠢き(*2)を感じ取ることができる。そうして、そこには何もないのではなく、「不図」が訪れるための空地があるのだと思えるようになれば、世界はもう少し風通しがよくなるはずだ。

 

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*1:何年も前に、勤務先の店長に借りて観た。店長はヴィトゲンシュタインが大好きだ。けれども、著作を読んだことのないぼくの方が好きな気もする。別にどちらがより好きかというのを言い合いたいわけではなく、共通する何かしらを、ヴィトゲンシュタインに垣間見たような気がするのだ。いや、もしかすると監督のデレク・ジャーマンの方にかもしれない。

 

*2:未分化の蠢きというものに魅せられたのは、湯川秀樹の本を読んだためだ。これについてはいずれ別の項目でしっかりと書きたい。

 

   2017年8月6日(日)