へ①:屁

 屁はガスだ。摂取された食物が消化されていく過程で生まれるらしい。

  (*1)

 屁は、大方のイメージとして臭いものだ。臭いものの代名詞は糞の方かもしれないが、糞だとビジュアルすらもイメージされるために、気体である屁の方が使い勝手がいいだろうと思う。いやもしかすると、屁の出処である肛門が、それも毛がびっしり生えてトイレットペーパーを絡みつけているような肛門が、人によってはイメージされるかもしれない。そうすると屁の方がより直接的に臭いように思えてくる(*2)。

 屁の、「へ」という変てこで脱力するような語感は、屁から来ているのか、「へ」そのものから来ているのだろうか(*3)。

 屁をおならとも言う。女房言葉の「お鳴らし」から来ているというのを以前にみたことがある。たしかに、屁と言うよりかは、おならと言う方が丸味を帯びる。すこしでも品よく言うためのものだったろうか。あるいは隠語か。けれども今ではすっかり隠す効力を失ってしまっている。おならはおならなのだ。

 おならに限らず、隠語がお天道様の下にさらされて市民権を得てしまうことが多々ある。そうなると言葉は退屈になる。気体のように、人々へ察知されずにするすると動きまわる言葉の方が活き活きしているように思う。そこには幽かにアングラな微香が漂うからかもしれない。そうしてそういうスリルを好む人が使いはじめ、使う必要もない一般の人々にも知れ渡っていき、秘匿されたものが暴かれ、効力を失うのだ。

 とは言っても、今でも公にされていない隠語がそこら中に潜んでいる。他の言葉の姿を借りて、あるいは寄生して、人々の目や耳を盗んで生きている。そのことを思うと少しく嬉しい(*4)。

 しかし考えてみると、すべての言葉は隠語の要素を持っている。ある言葉を見聞きして想起するものが人それぞれで違うように、使う言葉の背景が人の数だけ違うように、そのような言葉の内実をわずかでも共有できる存在が仲間と呼ばれるように。

 言葉は屁だ。屁のように視認することが叶わない。エレベーターのなかのスカシッペのように出処を曖昧にして人々の鼻を盗む。妙な香しさで脳に直接うったえかける。

「屁みたいなもの」という表現がある。たいしたことない、くだらない、というような意味だ。しかし、屁はテロルのような激烈なものでもあるから、使いようによってはたいしたことあるのだ。屁みたいな大事だったりもするのだ。(*5)

 

―――

 

*1:屁にまつわる話があるわけではない。今これを書きながら、必死にひりだそうとしている。ガキの使いの『ヘマチドパリ』のような具合だ。

 

*2:あるいは肛門の皺を想起させるかもしれない。そうして人によっては、その皺の数から、好きだった人のことを思いだしたりするかもしれない。

 

*3:け、す、ぬ。他だとこの三つがまぬけなように思う。

 

*4:人知れず蠢く存在に魅了される。ロマンというものがそこにはあるからか。

 

*5:必死にひりだしてみたが、消化不良だ。多少は屁が出たろうか。屁が出るということは、まだ実が体内にあるとも考えられる。糞の出る前兆と思えば、この項目は何かしらかの発酵過程だろう。それの出来上がるのをひとり楽しみにしている。実際、隠語というものを考えるきっかけになりそうだ。

 

    2017年8月6日(日)

 

 

 

ふ①:ふらり、不図

 ふとしたことを好きでいたい。

 自分なりの相関図や星座などを拵えているが、その隙間を縫うようにして、からかうようにして、時折り、図らずも訪れた思いに連れられてぼくは脇道へそれていく。

「不図」は、風をつかまえるため、空方へと伸びやかに枝葉を広げる樹木と似ている。

「不図」は、酒を肴にして友達と話に花を咲かせる夜に似ている。

 ふらりふらりと脱線していけば、妙な衝突事故に出逢って爆発するだろう。

 何処かへ出掛けようだとか、これを書こうだとか、

「不図」はぼくを別な行動へ導いてくれる。

「不図」は、取り留めのない空想事に拍車をかけもするが、総じて、心を晴れやかにさせてくれる。

「図らない」ことが良いのだろう。図ってばかりいる毎日だからこそ、固くなった頭に風が抜けていく心地よさを感じるのだ。

 おなじ「はかる」で「不測」という表現もある。これも同様、なにをするにも測ってばかりいるから、不測の事態がドラマティックに人生を動かしていく。謀ったり計ったりの毎日のなかに「不図」や「不測」の訪れる空地を残しておくことがいいのだろう。

 その「不図」が訪れる空地を「余白」とも呼ぶ。「間」と呼んでもいい。半眼で世界を眺めるようにして「余白」や「間」を望めば、そこには何もないのではなく、蠢くものを感じることができる。もしかすると、それをノイズと捉えて邪険に扱う人もいるかもしれない。そうしてノイズキャンセリング機能を駆使するなどして邪魔ものを取りはらい、自分の理想の世界を求めるかもしれない。けれども、そこで思いだされるのが映画『ヴィトゲンシュタイン』(*1)の最後に話されるセリフだ。

「摩擦を忘れていた」

 前後のセリフなどはすっかり忘れてしまったが、完璧な世界を求めていたヴィトゲンシュタインは摩擦のことを忘れていたために、その氷の上で足を滑らせ、倒れてしまう。摩擦は、世界のでこぼこだとか、欠点だとか、そういったことの表れだったはずだ。ノイズを取りはらう人たちと、すこし似ているように感じて、この映画のことを思いだした。ノイズを愛することが出来れば、そこに未分化な蠢き(*2)を感じ取ることができる。そうして、そこには何もないのではなく、「不図」が訪れるための空地があるのだと思えるようになれば、世界はもう少し風通しがよくなるはずだ。

 

―――

 

*1:何年も前に、勤務先の店長に借りて観た。店長はヴィトゲンシュタインが大好きだ。けれども、著作を読んだことのないぼくの方が好きな気もする。別にどちらがより好きかというのを言い合いたいわけではなく、共通する何かしらを、ヴィトゲンシュタインに垣間見たような気がするのだ。いや、もしかすると監督のデレク・ジャーマンの方にかもしれない。

 

*2:未分化の蠢きというものに魅せられたのは、湯川秀樹の本を読んだためだ。これについてはいずれ別の項目でしっかりと書きたい。

 

   2017年8月6日(日)

 

 

 

ひ①:暇つぶし

「人生は死ぬまでの暇つぶしだ」と言えるようになれば、きっとずいぶんと楽な心持で毎日を過ごしていけるのだろうけれど、そんなことを言うのは、本気で気が違えたように悟った人間か、そう思いたくって自分に言い聞かせているような人間か、そのふたつのうちどちらかだろうと思う。

 悟ってしまえば、社会とは、つまりは色さまざまに困難がぶつかってくる現実とは、すっかりおさらばしたようなもので、義務だとか権利だとかもずっと遠いところに臨む、夢みたいな時間を過ごせるのだろう。もちろんそこでは、食えないだとか、日が熱いだとかいう身体的な苦労はあるにせよ、観念的な束縛からは解き放たれることだろうと思う。

 暇つぶしだと自らに言い聞かせている人間の笑った顔は、去年は赤で、今年は青色で、来年はマリンブルー、みたいなどこから湧いて出たのか知れないトレンドをうそぶいて着こなすのに似ている。そんな連中ならば、きっと二三日もすれば、つまらない映画やドキュメンタリーに触発されて、いやに熱っぽく生きていくだろう。

「いや、君ね、それを含めての暇つぶしというものなのだよ」

 などと有難い忠告をぼくに与えてくれるのだけは勘弁してほしい。その暇を潰すのに、いったいどれほどの、他の、潰してはならないものも潰し、消し去ってしまっていることだろう。

 それだからと言って、「人生は」に続く言葉がぼくに見つかっているわけではない。見つかりっこないだろうという思いが片面にあるから、右のような愚痴をこぼす結果になっているのだろうとは思うけれど、それにしても、世の中には断言が多くって困惑する毎日だ。

 きっとみんなのするような断言は、真理という意味より以上に、確信という針路を取るための舵の役割が強い。とりわけ情報化社会などと言われて長らくが経つ現代では、どこを向いても本当らしい情報が大看板を立てていて、眩暈のするような毎日だ。あちらを信じればこちらに頭を傾いで、という具合に、ぼくらの頭の磁石はすっかり麻痺してしまっている。

 そんな風にして路頭に迷いこんでしまっては、確に信じられるものを見つけたくなるだろうし、そう思い立てば、案外に容易くそれは目前に現れもするから余計に厄介なのだ。その針路は、実際のところどこを向いていたって構わなくて、ただ、他と比べてベクトルのパワーが強ければいいのだ。その矢印を掴んで、

「これだ、これなんだよ!」

と、他を切り捨てて、それを選び取るのだ。みんなが欲しいのは、その強い矢印だけなのだろう。

 別に、それを悪いこととして払いのけはしない。それでもってみんなが幸せを手にすることが出来るのならば、それに越したことはないと思う。ただ、選択する片面には常に切り捨てられたものがあるということに、いつも目を向けていてもらいたい。

「それでは君、いつまでたっても前へ歩めないのではないかな」

 もちろんそうだ。そんな具合にああだこうだと頭を抱えていては、ちっとも前進しないから、だから人は舵を取るのだし、それでもって幸せが獲得できるというのは、いま述べたばかりだ。なにがなんでも中庸というものが絶対視されるべきではないし、そのことが幸せを足止めすることにもなるのだから。けれども。

 断言に、言葉の本質が垣間見える。或るものを他のものと区別し、切り分けることで、未来は拓かれていく。そうして尚且つ、切り分けきれないことをも含めて、言葉は言葉なのだろう。だから、ぼくは相変わらず観念的に世界を眺めているから、こんな様にこじらせてしまっているのだろうし、言ってしまえば、世界をそのように切り分け、酔っているというのもあるだろうと思う。

 つまりはぼくも、断言を、常日頃から求めているのだろう。また、この推量のかたちをとった断定に、すっかり寄りかかってしまっているのだ。

 さて、このぼくはどこから溢れてきているのだろうか(*1)。

 

―――

 

*1:或る日、人気のない路地裏でぼくは石ころを拾った。そのときに憶えた感情が同情めいたものだったから、ぼくは少し驚かされた。別段に特徴のあるわけでもない、ただの石ころだった。

 ぼくはそれをしばらく手の平で転がし、宙へ投げては掴みなおし、ついにはポッケへ仕舞いこんだ。それでズボンがすこし垂れ下がるくらいの、程のいい重量感だった。ポッケのなかで石ころを触りながら、ぼくは部屋へ帰った。

 

      2017年8月6日(日)

 

 

 

 

は①:墓場

 昨夜、住宅地のなかにひっそり佇む、或る墓場の前を通った。規模は小さいが、卒塔婆などもある、いわゆる旧式の、本寸法の墓場といった感じで、時刻はずいぶんと深かったから人の通る気配もなく、近くにそびえる高層マンションの窓明かりもずいぶん数を減らしていた。以前にはここにある空地でしばらくの時間を過ごしたこともある、馴染みの場所だ(*1)。

 昨夜は素通り(*2)しただけだったが、そこを通ってからふと見上げた高層マンション群が、すぐ後ろに過ぎ越した墓標たちとなんら変わらないように思えた。現に、あの直立する建築たちの内側で、人は眠っているのだ。そうしてローンや家賃などのために、そう容易くは引っ越すことも叶わない。するとそれらはますます墓標然と佇む。東京全体が大規模の墓地のように映りはじめてくる。

 そのように映るのは、多くの建築が直立不動しているためだ。人の住む家であっても、前庭や表へ緑を置いているような背の低い、昔ながらの家屋は風に揺れる。公私の境界線が緑によって揺らぎ、曖昧となるために、直立不動からは少しく離れる。それでも墓めいて映るのは、それら緑が苔の生した墓標に似ているからかもしれない。

 苔や周囲の樹木を見ると、かえって墓の方が居心地よいのではないかと思えてくる。安らかな寝息を立てているのは死者の方なのだ。

 ずいぶん前に「無縁墓」という存在を知った。墓参りする者もいなくなり、手つかずになった墓を然う言う。それらは或る期間を経ると、管理者が処分するらしい。埋められた遺骨は取りだされ、他の無縁仏と一緒になって供養されるという。少子高齢化核家族化の影響で、無縁墓は数を増している。「墓の墓場」というようなワードも聞いた。

 人間が人間の都合で拵えた墓ではある。だから人間の都合でどう処置しようと構わない。いまでも、死んだら墓に入りたいという人は多くいるわけだし、都市の地価高騰と同様に、墓地も予約や内覧予定で一杯なのだ。けれども、なんだか妙だ。死んでなお、縁を求めるのだろうか。ようやく解放されるのだから、はじめから無縁仏として、というよりも散骨やなどで大気に交じり入った方が良い気がしてならないのは、まぁぼくの勝手な都合だ。死者よりも、生きている者が名残惜しくって墓を建てるということも大いにあるだろう。何にせよ、人の死生観というのは大変に難解で厄介だ。

 高層マンションを眺め上げながら、しかしこの集合住宅というものも或る種の無縁供養塔ではないだろうかと思う。近隣住民との交流もすっかり減り、孤独な生活を送っている窓の数々が、既に無縁の何かしらかを漂わせている。

 人は無縁を求めながら、けれどもいざそうなったら寂しさを抱くのが大半だろう(*3)。彼らの引きこもる墓標が夜の街に林立していて、孤独を酒で洗い流している。妙な世界に生まれたものだ。

 そんなようなことをふと思って、ぼくも自分の墓のなかへ帰っていった。地縛霊のぼくだ。

 

―――

 

*1:吉原で「馴染み」の客となるのには三度通わなくてはならなかったらしい。その数えでいくとぼくは「裏」だ。きっと、もう一度訪れば、遊霊の方も打ち解けてくれるだろう。ぼくはぼくの名を呼ばれ、酒を呑み交わす。そのための酒を持って行こう。墓場で一杯。

 

*2:素通りということは、ぼくはそこを冷やかしただけなのかもしれない。裏ですら、初会ですらもない。

 

*2:探偵ナイトスクープで、坊さんになりたいという幼い男子が、親元を離れて寺で修行する様子を追ったものが放送された。なんとか頑張る男の子だったが、最後には泣き出して母親に抱かれるのだ。人の様子をよく映しているように思える。

 

      2017年7月31日(月)

 

 

 

の①:農

 耕すということをしたのは、小学生のときに、母に連れられていった大田原少年自然の家(*1)以降では経験がないように思う。そのときの思い出は、母の運転する車でくねくねと曲がる山道をすこし怖い思いをしながら現地へ向かって、稲を植えたり、猪鍋をつついたり、妙なおじさんの弾き語り(*2)を聴いたくらいの記憶しかないが、今頃になって懐かしく思う。この懐かしさというものは「な①:夏休み」で書いた通り、或る発酵を経てのことだ。そうして、この項目で改めて書くのならば、いつか蒔いた種がしばらくの後に萌芽するような時間経過と同じだろう。あるいは「ぬ①:抜け殻」のような蛹からの完全変態と。

 どうやら、耕し、種を蒔いたり、苗を植えるということは、多くのことに通じているらしい。

 たとえば、ぼくが心底から落語に興味を覚えたのは去年のことだ。それ以前にも落語に触れる機会はあった。実家に居たころ、つまりは高校生以前のころ、テレビで『ぜんざい公社』(*3)を観た記憶がある。上京してから一度だけ父親に連れられて新宿末廣亭へ行ったことがある。それらの時は、さほどの感動はなかった。「ふぅん」というような、すこし冷めたような具合ですらあったのではないだろうか。けれども、それから十年以上の時を経て、突如として興味が芽吹きだしたのだ。ぼくは、母と父から種を蒔かれていたのだ。

 けれども、それより以上に素通りして、忘却してしまった体験がぼくに知られず地中に埋まったままだ。それを掘り起こし、風通しをよくして、英気を養わせるには、ぼく自身が深く潜っていくことでしか叶えられないだろう。そうしてそれは、深く潜った末に、突如として、当然のような顔をして、街に溢れていたりすることも予覚している。ぼくは今も現に、さまざまを素通りしているのだろう。

 農とは、妙な時間の感覚だ。脳ではない、この足や手の平にある皮膚感覚に近い。未来を思い、砂を噛んで、汗を拭って、腕を振るう。耕さなくっちゃならない。コンクリートみたいに固くなったこの頭と世界とを。その隙間から、なにが差しこむだろうか。まるでタイムカプセルのような毎日になるだろう。苦楽がそこから噴出して、ぼくはくらくらとよたれるに違いない。何よりの酔い心地だとは思わないかな。

 

―――

 

*1:ぼくは山口県出身なのです。このことを思いだして、年明けはモロッコへ行くのにも良いけれど、少年自然の家に入り浸るのもいいかもなと思いはじめてきた。

 

*2:そのおっちゃんのサインを貰ったのを覚えている。実家にいるまでは、その色紙ですらない厚紙は部屋に飾られていたが、いまは何処に仕舞われているだろう。あのときに、おっちゃんが何を唄ったのかも覚えていない。けれども、はじめて音楽というものを生で体験した時間だった。

 

*3:いまは昔昔亭桃太郎のそれをよく見返しては笑っている。しかし、当時観た高座が誰のものだったかは思いだせない。噺家ではなく、噺だけを覚えているというのも面白い。人ではなく、物語という本質に近かったのは、違いなく今ではなく幼い心だったろう。

 役所へ行くたびにこの噺を思いだす。

 

    2017年7月30日(日)(*4)

 

―――

 

*4:今日は「に」「ぬ」「ね」「の」を一挙に書いた。だからこそ、すべては通じている。地下茎か。人の思考というのは不思議だ。縁、空、色、そういったものを思う今は、日付を跨いで31日の月曜日だ。明日の仕事に遅れないようにしなくてはならない。(*@)

 

*@:いつの間にか窓明かりの消えた高層マンションを仰ぎ見る六畳間。

 

 

ね①:根

 先週から、日曜日には目黒の植物教育園を散策する時間を設けた。今日で二度目だ。散策と言っても、滞在時間のうち八割は水生植物園付近のベンチで寝転がっているだけだ。と書いて、「ね①:寝る」にしておけばどれだけ楽に書けただろうかと後悔している。

「と①:トーキングヘッズ」でも触れたが、根を失った一輪挿しのようなぼくたちだ。だからその根を求めてうろうろと彷徨しているのだろうし、それは見つかりっこないだろうとも思っている。すると、だからこそ今度は自らが根となって、次代を育んでいくのかもしれない。

 水生植物園の、東屋付近のベンチに寝転がりながら、こぶし(*1)の古木が大きく弧を描き、枝の突端が地上の間際にまで迫っているのを観ていた。それはまさにアーチ橋だった。そうして目を見張ったのは、その橋の上に、短く小さな新緑が空方へ伸びはじめていることだった。いや、別段に不思議なことはない。単に幹から新しい枝が生えているだけなのだが、ぼくには妙に美しく思われた。それは新緑と、太い古木を覆うモスグリーンとの対比のためである。くわえて、アーチ橋の袂にではなく、橋の真ん中に建築が成っているように思われたためでもある。

 これらは幹と枝ではあるが、新たなものが根付くという意味で、ぼくには土壌と根のように映った。思えば、幹、枝、根という風に区切って見るのは人間の勝手な都合で、全部が幹だし、茎だし、枝だし、根であるとも言える。そんなことはいい。要は、橋の真ん中に建築があったというのが面白かったのだ。そんな街はないのだろうか。あくまでも橋で、その上に町があるような。祭りの出店ならば叶うだろう。いや、安全性から言って無理なのかもしれない。

 なにが言いたいのか分からなくなってきた。

「根」だ。つまり、切断された根を探すのではなく、ぼく自身が根になるということ。あの古木のこぶしのように、新たな土壌となり、根となること。その上に、新たな枝と街を芽吹かせるような(*2)。

 気分転換、頭を空っぽにするために行った植物教育園で、まさかの拾いものだ。どこに何が落ちているか知れない。そのことが面白い。

 

―――

 

*1:「こぶし」はモクレン科らしい。学名が「Magnolia Kobus」で、英名でも「Kobushi magnolia」とこぶしの名前がそのまま使われている。このマグノリアで思いだすのはHiatus Kaiyoteの『Mobius Streak』だ。この歌詞にマグノリアが出てくる。名曲。ファーストアルバムの一曲目。これに完全にやられてしまった。

 

*2:枝は幹からの脱線だ。逸脱だ。そうして話に花を咲かせるのも、脱線の限りを尽くした先で開くのだ。この身体を中心に、脱線の限りを尽くせば、それは叶うかもしれない。

 

       2017年7月30日(日)

 

 

 

ぬ①:抜け殻

 子どもの頃は、蝉の抜け殻を見つけてよく喜んでいた。抜け殻の、透きとおる色と光沢と、ヤワな感触が相まって、宝物のように思えていたのだろう。それを見つけると、今でも、少しく嬉しい思いがする。

 度々、路傍で抜け殻を見かける。人に捨てられたゴミのことだ。中身のないペットボトルや吸い殻、レジ袋、お菓子の外装、軍手、骨の折れたビニール傘。まだ中身の残っているペットボトルもよくある。それらは落とし物ではなく、やはりゴミなのだ。それらを飲食し、使用していた者にとって、すでに意味や機能を損なった抜け殻だから、捨てられていく。

 抜け殻は、たとえばボランティア清掃員によって拾われ、一所に集められる。集められるとゴミ回収業者が引き取って、処理場へと運び去る。転がっていたひとつひとつは見映えの悪いものばかりだが、うず高く積もった処理場のゴミ山を遠くから見ると、色さまざまで妙に綺麗だったりする。その色味は、なんだか仏教の五色の旗を思い起こさせる(*1)。

 抜け殻は不要となった外皮だ。その中身は、たとえば空を飛んでいたり、人の身体の中を流れていたり、やがて土へ還っていったりする。意味機能が失われ、そこら中に横たわっている亡骸だ。

 その延長で、ぼくはいつも言葉のことを思う。いまこれを書いている安い喫茶店では、さまざまな言葉が飛び交っている。ヒンディー語(*2)も話されている。言葉が現に話されているということは、言葉は意味を持って人々のあいだを行き交い、生きているということなのだろう。話される言葉は空気を震わせてぼくの耳にまで届き、頭の中で意味を花咲かす。この店を出ても、そこら中で言葉は放たれている。たしかに言葉はある。けれども、なぜ言葉と抜け殻とがリンクされるのか。と、ここに打ち込む文字は言葉であって、ぼくはそれを見て意味を受け取る。

 言霊という言い方がある。きっとそのことに通じている。言葉が力を失ってしまっているとぼくは考えているのかもしれない。街に溢れかえる言葉に嫌気がさして、そう考えているのだろう。そうだ。街には言葉が溢れ、捨てられていっているのだろう。喧伝する文句ばかりが投げられ、道端に転がっている。

 言葉が大事にされていないのだ。そこに罪の深さを視る。いや、このようにして言葉を連ねているぼく自身に対しても、時折り罪悪を感じる。言葉を用いるというのは、業の深い行為なのだ。葬りの場に立つ職のように、あるいは、屠殺場や厨房に立つような、穢れのある職のようにして、ぼくは言葉に刃をいれているのだ。

 そこにある言葉は既に抜け殻だ。中身はどこかを浮遊している。ようやく檻から出られたように、心地よく漂っている。

 けれども、少年が虫取り網で宙を掻く。捕まえられた蝶が虫かごに入れられる。内臓を抜かれ、標本となる。それは抜け殻だ。

 それならば、ぼくが書くということも単なる標本化にすぎないのだろうか。いや、言葉はするすると網目から脱け出ていくだろう。言葉は蛹のなかで自己変容しながら時代を横断し、時折りぼくの元へ訪れる。ぼくはそれを手に取って、まじまじと見つめてみる。それは既に抜け殻だ。言葉はすぐにそこから飛び立っている。ぼくはそこに宝石のような喜びを見出す。透きとおった、光沢のある、ヤワな感触を残す抜け殻を見つめる。

 そのような、言葉の輝く瞬間がある。それは音楽に似ている。くすぐったそうに、愛撫されたように、喜ばしく輝く言葉は、音楽だ。メロディはメレー(節)の集まりだ(*3)。ぼくは抜け殻を集めて或る音楽を奏でたいのだろう。(*4)

 

―――

 

*1:学生時代にネパールへ行ったことがある。ゴミ焼却場と、カトマンズの寺院の色彩やパシュパティナート(火葬場)とがリンクして、このように思うのかもしれない。ジャナクプルのミティラン画や、彼女たちの着ていた衣装。

 

*2:これを書いている喫茶店でヒンディー語を耳にしていたために、ネパールのことが自然と思いだされたのかもしれない。

 

*3:エコーの神話だ。歌のうまい木霊エーコーが、神の怒りをかって身体(歌)を八つ裂かれ、その節(メレー)が地上に残った。それら節々が集まって、メレディー(melody)になるのではないかと考えている。このメレー(節)を拾い集めることは、ぼくにとってミレーの落穂拾いに近い。だからブログのタイトルも「Ochiho」を冠している。

 

*4:五色の旗が思いつかれ、パシュパティナートが思いだされ、それは店にいるインド人の影響があるかもしれないと思うと、今回の「ぬ①:抜け殻」には不思議な縁を感じる。このようにして言葉は降ってくる。

 

     2017年7月30日(日)